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片道一時間半をかけて向かう大学にもようやく慣れてきた六月の上旬、四月病も五月病も乗り越え今や来月に控える初めての試験におびえるわたしは一ヶ月前になったら試験勉強を始めることを心に誓い、四限後のまだ明るい時間帯を直帰に充てようとしていた。大学生になってから家の近くでバイトを始めたけれどこの曜日は入れてない。六月の外はもう暑いからさっさと帰って家で涼もう、と考えながらキャンパスを出ようとした、ところだった。


!」


後ろから名前を呼ばれ反射的に振り返る。大学にはわたしを下の名前で呼ぶ人間は何人かいるもののそれは軒並み女の子で、しかし今の声は高めでこそあれ明らかに男のものだった、という前に今のって。瞬時にそんな思考を巡らせながら目にしたのは、手を大きく振り駆け寄ってくる男子学生であった。


「すげ、やっぱだった!」
「こ、こたろう、なんか久しぶりだね」


正門で立ち止まったわたしの目の前で急ブレーキを掛けたのは予想通りかつ意外な人物だった。肩をバシバシ叩かれるけれど交友関係で培われたその力加減はかろうじて痛いと思うものではなく、わたしは素直に彼とここで会ったことに驚いていた。


「な。大学で会うの初めてじゃね?」
「うん、小太郎ちゃんと大学来てたんだ」
「え?!来てたに決まってんじゃん!」


最後に会ったのは三月の中旬だったろうか。高校を卒業したあと東京に帰ってきたと思ったら早々に一人暮らしのアパートを決めそちらでの生活を始めてしまった彼とはそれ以来顔を合わせていなかった。学部は違えど同じ大学だと知ったときにはもっと頻繁に見かけるものかと思ってたけれど、いざ入学してみると彼の姿はどんなに意識して歩いても大学構内どこにも見当たらなかった。サボり癖でもついたのかという可能性もわずかながらあったといえばあったのだけどそれはあえて言わずに、冗談だよと笑い飛ばすと小太郎は口を尖らせた。「なんだよー…」けれどその表情はすぐに消え、彼は特徴的な猫目を瞬かせ首を傾げた。


帰り?」
「帰るよ。小太郎も?」
「うん。水曜はいつもサークルあるんだけどさ、なんか別の団体の行事?か何かがあるらしくて体育館使えないんだよね」


理由をよく把握してないのも彼らしい。そうなんだと深くは突っ込まず相槌を打つと、肩越しに小太郎の名前を呼ぶ人物が見えた。


「ちょっと、いきなり走り出さないでよ」


その台詞から、彼が小太郎とついさっきまで一緒に歩いていたことがわかる。突然走り出す小太郎の様子がすぐに想像できて苦笑いを零しそうになったけれど、全身に広がる緊張がそれをさせなかった。向こうから歩いてきたその人は初めて見る顔だ。初対面というものが苦手なことに加え、更にわたしはその人の容姿や言動に驚かされたのだ。そんなことにはお構いなしの小太郎は振り返り「あーごめんごめん」とすっかり悪びれる様子もなく謝罪の言葉を述べる。


「で、ねえこれ!!」
「…ああ、幼なじみの?」
「そうそう!同じ学部っしょ?大教室の授業とか被ってんじゃね?」
「え、と、…」
「あ、、こっちレオ姉!高校同じだったの!」


とても大雑把な紹介を受け、改めてその人物を見上げる。小太郎もかなりの長身だと思ってたけど、この人はそれよりも高い。わたしは小太郎が高校時代、チームメイトの一人をレオ姉と呼ぶのを何度か聞いていて、その人がそういう部類の人種であることも知っていたものの、心構えなしにいざ会ってみるとなかなかの衝撃で面食らってしまったのだ。長身で、綺麗な顔立ちをしているから余計に。
小太郎の紹介に顔をしかめた彼は改めてわたしに向き直り、にこりと笑顔を見せた。


「初めまして、実渕玲央です。小太郎とは高校で同じ部活だったの。さんよね、どうぞよろしく」
「あ、です。小太郎とは幼なじみで、…えっと、よろしくお願いします」


四十五度のお辞儀をすると、小太郎が駅まで一緒に帰ろうと提案した。それにわたしが耳を疑い固まっていた隙に実渕くんが頷き、多数決により瞬時に可決してしまった。ちょっと待って。そうして、初対面の人と帰り道を共にするなどという展開に気後れしたわたしは、二人が動き出したことに反応が遅れた。


「あ、」
、行くよ?」


脳が足に動けとの命令を出す寸前、つまりわたしが棒立ちしたまま固まっていると、進行方向へ一歩踏み出していた小太郎がすぐに振り返りわたしの手を引いた。いきなりのことに驚いてごめんと大丈夫が混ざり言葉にならない声が口から出てきた。それを笑う小太郎を斜め後ろから見た、と思ったら、途端に、心臓が大きく脈打った。しかし動揺は表面には出さず、今度はちゃんとした言葉を発する。


「小太郎、歩けるから」
「ん?ああ、ごめんごめん」


やはり悪びれる様子のない彼はパッと手を離した。小太郎のスキンシップは慣れたものだ。彼には昔からこういうことをされていたから、今さらどうとも思わない。
前を歩く二人の背中を眺める。わたしは小太郎が大学に、モスグリーンのリュックで通ってることを今日初めて知った。そんなことも知らなかった。離れてからの彼を、わたしはほとんど知らないのだ。


「そうだ、今度三人で宅飲みやろーよ!」


屈託ない笑顔で突拍子もない提案をしてのける彼へのリアクションはせず、自分がずぶずぶと何かの沼にはまっていくような感覚に襲われていた。不思議そうに振り返った小太郎には、かろうじて笑って頷くばかりだ。
……なんか心臓あたりが苦しいな。その理由はちゃんと、わかってるけど。

あれから七年も経つ。醜い恋心を捨てられないまま、わたしはまだ後悔していた。


「それでも、俺はずっとがすきだよ。絶対だ」


あの言葉の効力がまだ続いてると、今でも期待しているのだ。