9.

 もちろん親にはが泊まりに来ることは言ってない。帰ってくるタイミング的にも鉢会わせることはないし、最悪帰ってきてから誰かが泊まったことがバレても鋼や穂刈あたりが来たと言えば騙されてくれるだろう。それより今ちゃんたちにバレたらやべーと思うけど。さすがに怒られそ。
 本部を出たときにいまから帰るとメールを送ると、すぐに了解の返信が返ってきた。それを見てなんとなく、同棲してるみてーだなと思った。携帯をコートのポケットに突っ込み、一緒に入れていたトリガーをポケットの中でいじりながら一人の帰り道を歩く。しばらくしてリビングの明かりの漏れる自宅に着くと、何でもないようにインターホンを押した。ここまでは本当に何でもなかった。いつも通りだったと思う。


『当真くん』
「おー」
『まって、すぐ開ける』


 そう言ってスピーカーからの気配が消え、すぐに玄関のドアの向こうから足音が聞こえてくる。その微かな存在に引き寄せられるように、俺もドアへと足を向けた。ガチャリと鍵があく音、ドアが開く。


「お、おかえりー…」


 へにゃりと眉をハの字にして笑うが出迎える。そこで俺は初めて、ちょっとマズッたかもと思ったのだった。


「…ただいま」


 やべえ、想像してたよりくる。


 風呂は沸かしてあると言われたのでお言葉に甘えて先に入ることにした。ぼーっとしてる印象だが案外気が回るところもあるらしい。心の中で感謝し、枠に両腕をかけて湯船に浸かる。芯から温まっていく感覚に息をついた。
 照明によってオレンジ色に染まる天井をぼんやりと眺めながら、思い出すのは昨日の夜のことだ。昨日、泊まりに来ないかと誘ったとき、断られるとは思ってなかったものの少なからず戸惑う姿は想像できてた。なのにあいつ、そんな様子微塵も見せないで、目を見開いて、「いいの?」って聞いたのだ。それに呆気にとられつつも、いいから誘ってんだよと返せば、みるみるうちに顔を赤くしてった。と思ったら口をつぐんで、ぎゅっと目をつむって、大きく頷いたのだ。


「あーー……」


 両手で顔を覆って吐き出す。くぐもった声が浴室に響いた。ほんとなんつーか、のああいうところがいじらしいっつーか、かわいーんだよなあ。迷わず頷いたくせにさっき玄関のドア開けたとき顔真っ赤だったの、あれ緊張してっからだろ。

 あんまりにそういう健気な女だから、を見てると嗜虐心が刺激される。ちょっとよくないことをしてしまいたくなる。すきにしていいみたいな。今日も、どうしてやろうかとか、考えちまう。


「…………」


 とりあえず、のぼせる前に上がっか。


 適当に灰色のスウェットを着、髪の毛も適当に乾かしてリビングに戻ると、なぜかの姿が見えなかった。と思ったらすぐにダイニングテーブルの陰からすくっと立ち上がったので少し驚く。なんでそんなとこにいんだよと思ったが、よく見るとの荷物であるリュックサックが置いてあったから何か入れるか出したのかもしれない。(……)しかしそうではなさそうなのを直感した俺は、なんとなく彼女に近づいてみた。


?」
「……あの、ちょっと心を落ち着けてた…」


 肩をすくめて笑うを改めて見てみると頬は真っ赤なままだった。やっぱ緊張してやんの。さっきから、もしかして今日ここに来てからそうだったのかも。ずっと緊張してんのって疲れそーだな。申し訳ないけど、俺はそれを助長させることしかできねーんだわ。
 居た堪れないのか俯いたのつむじが見える。それを押して背を縮めたいと思うし横から手を入れて髪を掻き上げたいと思うし柔い頬を引っ張りたいと思う。けど何したってを助けることはできねえんだろう。それがまた、楽しいと思ってしまう。
 伸ばした手の甲での頬に触れる。もっとも、俺もさっきまで風呂に入ってたから、の頬がどれだけ熱いのかはよくわからなかった。

 の方はいよいよ直立したまま動かなくなってしまった。両手は自分の服の裾を握り締めている。は尻まで隠れるパーカーを着て、下はジャージと、暖かそうな靴下(ルームソックスっつーんだっけ?)を履いていた。人の家で裸足になるのは気が引けたのかもしれない。手を離し、屈んでの額と自分の額をコツンとぶつけてみる。びくっと反応は見せたが、一層身体を硬くしてしまった。このまま石膏にでもなっちまいそうだと思った。

 ちゅーしていいかな。したら飯食えなくなりそう。やめとくか。

 結局頭を撫でるだけにとどめを解放してやることにする。ついでにつむじがなくなるくらい乱暴にわさわさと掻き回すと、されるがままのは手が止まったあと控えめに俺を見上げた。まだ顔は赤いが、硬直は解けたらしい。


「腹減った」
「そ、そうだね……うん、準備する」


 泣きそうなくらい表情を緩ませて笑う。さすがにそこまで任せっきりにはさせられないから俺も台所についていく。用意のいいことに、皿もスプーンも置いてあったから、カレーをよそうくらいしかやることはなかったのだが。








 飯を食ったあとはこたつでぐーたらしてた。ちなみにカレーを食ってうまいとありきたりな感想を言えばはひどく嬉しそうに笑っていた。そういえばダイニングテーブルに置いてあった食費の一万円は手付かずだったからそのことを言うと、昨日ラーメンご馳走になったからと首を振られた。あれも今も俺が付き合わせてんだからそんなこと考えなくていいっつーのに、と思いつつ、金のことでぎゃーぎゃー騒ぎたくはないのでここは引くことにする。また今度飯に誘ってやればいっか。
 そんなことを話しながら食後の時間を過ごしてるうちに日付が変わろうとしていた。俺が帰ってきたのがもともと遅かったし、ボーダーの仕事がある日は大体こんな生活リズムになる。もう慣れたし学校でも散々寝たからまだ眠くはねえ、が。寝転がっていた態勢から起き上がり、こたつを九十度囲んだとこに座ってるを見遣る。


(あー……)


 さっきから生返事だなとは思ってたけど、まぶたが重い、というかすでに船を漕いでいた。無理もねーか、今日ずっと緊張してて、ようやくその糸が切れたと思ったら今度は睡魔に襲われてるわけだ。そりゃー勝てねーよ。


「そろそろ寝っか」
「うん……あ、お皿洗ってない…」
「朝でいーだろ。歯磨いて寝よーぜ」


 こくんと頷き、壁に寄りかからせたリュックから歯ブラシセットを取り出す。普段からのんびりとした奴だと思ってるけど、今は輪をかけて動きが緩慢だ。こういうとこを見るのは初めてだった。隙だらけっつーか、丸腰っつーか、警戒心のなさにこっちが心配になってくるレベルだ。


「当真くん、わたしどこで寝ればいい?」
「俺のベッド」


 歯を磨き終え、階段を登る途中でそれを聞かれた。来客用の布団は出せばあるけど面倒くせえ。最初からそのつもりだったしとテンポよく返すと、後ろのが固まったのが気配でわかった。振り返る。


「そ、それは悪いよ……!当真くんのベッドなんだから当真くんが使って、」
「俺も使うけど?」


 今度はぽかんと口を開けた。まあそのリアクションは想像できてた。せっかく眠かったのに起こしちまったかな。といっても妥協する気はまったくねえんだけど。部屋の前まで来、ドアノブに手をかける。


「一緒に寝よーぜ。いや?」
「いやじゃない…」


「じゃあいーじゃん」かろうじて首を縦に振るに、やっぱ嫌がんねーなと思いながら部屋のドアを開け招けばおずおずと入ってくる。あー、部屋寒ィ。ドアを閉め、机の上のリモコンを操作して暖房をつける。俺の身長に合わせると横幅もそれなりになるものなのか、部屋にあるベッドは割と大きめだ。二人で寝るのに快適とは言えなくても窮屈じゃないだろう。奥の方に乗っかり「ほれ」隣をぽんぽんと叩くと、はまるで重量オーバーで陥没するんじゃないかってくらいおそるおそる膝を乗っけるので、じれったくて手を引っぱったらようやく両足をたたんでへたり込んだ。

 なんもしねーよ、とか言っても言わなくてもこいつにとっては関係ないことだから言わない。は何かをされる心配をしてるわけじゃない。単にこの状況に耐えらんねえんだろーな。

 前に部屋に来たときも相当な緊張具合だった。家に上がる時点ですでにガチガチだったけど、部屋に来たときには完璧に茹で上がっていて、促したベッドに腰掛けてからは少しも動けていなかった。
 ぶっちゃけ、こっちまで変な気分になってくっから勘弁してほしい。普通に下に親がいたし何もしてねーけど。ちゅーくらいはしたかも。とにかく、一緒にいると流していいんじゃないかって気になる。なんか、すきにしていいのって感じ。

 そう、今もそんな感じだ。

 ベッドにへたり込むに顔を近付け、くちびるをくっつける。身体が強張ったのがわかった。やっぱり何もしねーよとか言わなくて正解だった。も疲れてるしさすがにこれ以上はしねーけど。


「電気消すぜー」
「……うん」


 羽毛布団を被せるとようやく決心ついたのか、すごすごと横になる。俺に背中を向けるのがこいつらしいけど、ちょっとさみしーかも。けど仕方ねーかと内心笑って、照明から降りる紐を引っ張って電気を消した。あんまり離れると布団が掛けられなくなるからと理由付けて、に寄って寝転がる。


「と、とうまくん」
「んー?」
「おやすみなさい…」


 律儀にあいさつするくせに、恥ずかしくて振り返れねえんだろーな。思うと楽しくて、少し笑って返した。



 が寝付いたあともまったく眠れる気がしなかったので背中を眺めていると、ふとそいつが寝返りを打った。その頃にはすでに暗室に目が慣れてたからの横顔がよく見えた。


(こっち向けー)


 天井を向くの頬に左手の甲を当てる。柔らかい肌に人差し指の第二関節をうずめる。と、ふいに左手がに捕まった。一瞬起きたのかと思ったがそうじゃなく、は目を閉じたまま俺の手を握っていた。そのうえ頬ずりまでしてくるもんだからちょっと感動した。いっつも俺が話しかけるか呼んだときしか来ねーから、こいつから積極的な態度を取んのはすげえ珍しい。
 左手に力を込めて軽く引くと追いかけるようにこちら側に寝返りを打つ。ようやく顔が見えるようになり、悪戯心が湧いてくるが起こすのは悪いからぐっとこらえる。


(どっちかっつーと犬っぽいと思ってたんだけどなー)


 飼い主に忠実なとこは犬のそれを連想してた。けど、なんかこういうとこは猫っぽいかもなー。あとやたら構いたくなるとこも。最初から手招きしたら寄ってくる警戒心ゼロな猫なんてそうそういねーけど。ああでも、ん家の隣の猫はすぐに懐いたな、あんな感じか。

 静まり返った部屋で、依然離れないの右手をぼんやりと眺める。普段もこんくらい積極的でいいのにな。まあ今のまんまでもいいけど。背筋を曲げ、さっきみたいに額をくっつける。起きる気配はない。
 抱き寄せたかったけどあいにく左手が塞がってるからそれは叶わなかった。なのでおとなしく目を閉じることにする。頭は時間が経つほど冴えていってたけど。


 なんとなく思う。わりと俺も、おまえなら何でもいいのかも。