8.

 放課後、急いで帰りの支度をしていたわたしより先に終えた当真くんが、スクールバッグを肩にかけて「帰ろーぜ」と声をかけた。ポカンと口を開けてしまう。それから我に返って、ジジジとカバンのチャックを閉めながら、わたしの方が早かった試しがないなあと苦笑いしながら頷く。今ちゃんと柚宇ちゃんにばいばいと手を振ると、何でもないように振り返してくれる。隠し事、ってわけじゃないけどちょっと後ろめたいかもしれない。あんまり二人と目を合わせていられなくて、当真くんの後ろに続いてそそくさと教室を出た。

 警戒区域に近付く道のりは人通りが少ない。わたしの帰り道はボーダーの連絡口を通るとはいえ、本当はもっと近い道があるし、わたしも一人のときはそこを通っている。でも当真くんと少しでも長く帰れるという理由で、ちょっと遠回りなルートを歩いてるのだ。それでも連絡口は本来高校生のボーダー隊員のためのものなので、便利なように高校の近くに設置されている。なので話していればあっという間に着いてしまうのだ。


「じゃ、これ鍵な」


 ポケットから取り出された銀色のそれを、両手をお椀の形にして受け取る。わたしの家と同じ形の鍵だ。頭の穴にリングが通っていて、それは黒猫の、大きめのアクリルキーホルダーにつながっていた。首輪もリボンもつけていないシンプルな猫だけれど、どことなく愛らしさを感じる顔立ちだった。らんと開いた目と合う。


「かわいーだろそれ。とっきーに貰った」
「ときえだくん」
「そーそー」


 猫を飼ってる二個下の男の子。そうだ嵐山隊の人だ。テレビで見たことある。家に行って猫と遊んできたと、前に当真くんから携帯の写真を見せてもらったこともある。ときえだくんとは同じ高校らしいけど、学校で会ったことは一度もなかった。当真くんの話に出てくる人たちは名前とその情報だけ頭に残っている。なんだったっけ、あとはむらかみくんとほかりくんと、あらふねくんとかげうらくんと、……当真くんは友達が多いし後輩にも顔が広いので、お昼休みはほとんどどこかへ行く。そのまま五限をサボることもあるけれど、そのときは大抵友達とダベってるらしい。
 当真くんの周りの人たちの顔と名前が一致しないのは、誰ともまともに関わったことがないからだ。二年生の頃友達と歩く当真くんを見かけたり、三年生になって友達に呼ばれて教室を出てく彼を目で追ったりしてるけれど、その誰かとわたしが直接言葉を交わしたことはほとんどなかった。「当真を呼んでくれないか」って頼まれたことが一、二回あるくらいだろうか。それも相手の名前を知る前に終わるので、結局わたしはその人の顔をなんとなく覚えるだけだった。
 ふわっと前髪に何かが当たる。ハッとする。当真くんの手の甲だ。トンと軽くおでこに触れたあと、それはすぐに離れていく。


「……俺たぶん帰んの九時ぐらい」
「……わかった…」


 また違うことを考えていた。それを止めてくれたのだろう。どきどきする心臓を抑えようと両手でしっかりと鍵を握りこむ。絶対なくさないように。命より大切にする。

 当真くん家に、お泊まりする。当真くんは防衛任務があるので、わたしが一人で先に行くことになっているのだ。まずは自分の家に帰って、お風呂に入ったあと着替えなどを持って当真くん家に向かう。当真くんの家にちゃんとお邪魔したことはないけれど、すきに使っていいと当真くんが言ってくれた。


「あ、わたし何かやれることある?何でもする」
「何でも?」
「うん」


 頷くと、当真くんは「へー…」と乾いた反応をした。細められた目はわたしを見下ろして何かを考えているようだったけれど、残念ながらわたしには少しも読むことができなかった。


「あー、じゃあ何か飯作っといてくんね?」
「夜ご飯?」
「そ。自分で用意しろって言われてんだよな。金はテーブルの上にあった気ィする」
「それは大丈夫だけど…な、何がいい?」
「何でも食うぜ。たぶん」
「カレーとかは…」
「お!カレーすき」


 ニッと笑う当真くんにホッとする。よかった、何でもするって言っておいてロクなものを作れなかったら情けない。カレーなら家で何度か作ったことあるし、失敗するようなものでもないし、大丈夫だと思う。

 お母さんに友達の家に泊まりに行くと言ったら何ちゃん家?と聞かれたので、隣のクラスの子の名前を言っておいた。同じクラスだと連絡網があるので親同士のやりとりができてしまって危険だと思ったのだ。高校生になって初めてのお泊まりだからわからないけど、中学のときは泊まりに行く友達の家の人にお母さんがよろしくお願いしますって電話してたのを見たことがある。今日泊まりに行くのは今ちゃん家だなんてうっかり言ってしまった日には、嘘がバレて大目玉を食らうだろう。今ちゃんに口裏を合わせられたらよかったのかもしれないけど、それはできなかった。


「今ちゃんたちには言ってねーよな?」
「うん」


「今ちゃんたちには内緒な」昨日の夜言われたことだ。どうしてだかはわからないけど、当真くんは今ちゃんや柚宇ちゃんには知られたくないらしかった。二つ返事に頷いたわたしに、当真くんはならいいやと頭をわさわさと撫でた。


「じゃ、ちゃんと鍵閉めとけよ。おまえ包丁持ってても攻撃力3もねえんだから」


 苦笑いして頷く。それから当真くんは、連絡口のシャッターを開け、その向こうへと去っていった。一瞬見えたそこは人工的で殺風景な通路だ。そこから先は、わたしの想像でしかない、ボーダーの基地に繋がっている。一転して心細くなるのはここで当真くんと別れるたび陥る心境だ。どうしようもない、のだけど。








 一応チャイムを鳴らして、誰も出てこないのを確認してから家に入る。無人なのは当真くんから聞いてわかってたけれど、もし堂々と鍵を開けて中にお父さんやお母さんがいたら恥ずかしいを通り越して申し訳ない気持ちになるだろう。案の定家の中に人の気配はなく、わたしは一人どきどきしながら当真くんの玄関に足を踏み入れるのだった。

 当真くんのご両親は今朝から出張に出ているらしい。二泊三日で北の方に向かったそうで、旅行先と被ってなくてよかったんだってと言っていた。なんでも当真くんが留守にしていた二週間に合わせて、夫婦旅行で南の方に行ったんだそうだ。そのあとすぐの出張だというので大変だろうと思う。ドア近くのリビングの電気をつけると、ダイニングテーブルに旅行先のお菓子のお土産が置いてあった。当真くんは勝手に食べていいと言ってたけれど、図々しい人間にはなりたくないので、頂くのは当真くんが帰ってきてからにする。その隣にお母さんから持たされた手土産のお菓子を置き、自分のリュックサックは隅っこの壁に置かせてもらった。
 当真くんから冷蔵庫の中に使えるものがあったら使っていいと言われてるので、買い物に行く前にチェックをする。玉ねぎと人参はあるから、お肉とじゃがいもと、あとカレーのルーとサラダに使う野菜は買ってこよう。忘れてしまいそうなので携帯のメモ帳に残しておく。

 パタンと冷蔵庫の戸を閉め、おもむろに、その場にしゃがみこんでしまう。太ももが胸を圧迫して、心臓の動悸がさらに伝わってくるようだ。


「……はあー……」


 緊張する。わたし、いま、当真くんのお家にいるんだ。いままで来たのは遊びに出かけた帰りにちょっと寄っただけで、リビングに入るのは初めてだった。前来たときはすぐに当真くんの部屋行ったからなあ…。
 当真くんの部屋でも相当刺激が強かったけれど、リビングもなかなかだ。当真くんの生活を垣間見てる気分になり頭がくらくらしてきた。顔もかっかと熱い。落ち着かないと。当真くんが帰ってくるまでの三時間、ご飯を作るだけじゃなくて、この心臓を静める任務もある。


「とにかくお買い物に…」


 よろよろと立ち上がり、リュックサックの中からお財布とエコバッグを取り出す。テーブルの上に一万円札が置いてあったのが見えたけれど、それには触らないようにした。そうだ、明日の朝ごはんも買っておこう。パンでいいかなあ、メールしてみよう。


「……」


 携帯でメール画面を立ち上げて、手が止まる。……すごいなあ…なんか、同棲してるみたいだよ。泣きそうだ。