7.

 今日の科目は黒板を使う授業が少なかった。この二週間当真くんの分の板書を担っていたわたしは、授業中は自分のノートに漏れなく写すことに集中し、家に帰ってからルーズリーフに当真くん用に書き写す作業を毎日していた。ノートには自分なりのポイントなんかも書き込んでおいて、あとで今ちゃんに間違ったことを書いてないかチェックしてもらい、それも当真くんに渡す方に書いておく。わたしと当真くんは学力がほとんど同じなので、たぶんわたしがわかりにくいとこは当真くんもわかりにくいと思うだろうと考えたのだ。「甘やかしすぎじゃない?」と呆れていた今ちゃんも、柚宇ちゃんが帰ってきたら今ちゃんお手製の綺麗でわかりやすいノートを貸す約束をしてるみたいなので、おあいこだろうと思う。
 当真くんはコピーでいいって言ってたけれど、家のコピー機ではシャーペンの文字が綺麗に写らなかったのでやめにした。それに授業中板書したノートはあまり字が綺麗じゃないので、できるなら真剣に書いたものを渡したかった。

 今日は古典と家庭科だけだ。帰ったらご飯の前にどちらか一教科終わらせられると思う。スクールバッグを肩にかけ直し、通学路の角を曲がる。その三軒先がわたしの家だ。


「……え、」


 思わず、ぴたりと立ち止まる。家の前に、誰かしゃがみこんでいるのが見えたのだ。いや人がしゃがみこんでるくらいだったら驚くけど固まってしまうほどじゃない。黒のダウンジャケットにジーパンを履いた、背の高そうなその人が、そう、当真くんだったから、わたしは動きも思考も停止したのだ。


「おー、やっと帰ってきた」


 当真くんがわたしに気付き、しゃがんだまま手を振る。それでようやく頭を働かせるようになったわたしは、かろうじて手を振り返すことができたのだった。次に、固まっていた足を踏み出す。二歩、三歩と進んで、どんどん駆け足になる。とうまくん、とうまくんだ。一軒目と二軒目を通り過ぎ、胸がきゅうきゅうと狭くなっていく。次に立ち止まったときには、目の前で当真くんが、わたしを見上げて笑っていた。


「当真くん、」
「はは、やっぱダメそーだった」
「え、」


「てか帰ってくんの遅くね?何かあった?」どういう意味だかわからなかった言葉はすぐ流れ、代わりに答えやすい投げかけを受け取る。「掃除場所変わったからだと思う…」確かに帰ってくる時間はいつもより遅かった。当真くんは学校からわたしの家に来たことがあるので、大体片道何分かかるかわかっているのだろう。それから、当真くんはお仕事終わったのか聞くと、テンポよく肯定の返事が返ってくる。「昨日の昼ごろ終わって、夜にちょっとあって、今日は休養日ってことで休み」そう答えた当真くんの足元には、よく見るとお隣の三毛猫がいた。どうやらここで待っている間仔猫を構ってたらしい。どのくらい、いたんだろう。今の当真くんは私服だ。そして彼の口ぶりからして、わたしが帰ってくるのを待ってたみたいなのだ。ちょっと走っただけなのに心臓がうるさいのは、疲れてるからじゃない。上がった息を落ち着かせるようにゆっくり深呼吸をする。声が震えていた。


「じゃあ、明日から学校来れるの…?」
「行く行く。あ、ノートさんきゅーな」
「ううん、全然……あ、ごめん、今日のはまだ写してないから明日渡すね。他のは家にあるから今取ってく、」
「まー待てって」


 当真くんの用件が思い当たりそれなら家に来たのも納得だと急いで踵を返すも、当真くんの手によって腕を掴まれてしまい叶わなかった。なんだろうと振り返る前に、当真くんはわたしを引っ張るように立ち上がった。


「それは明日でいーや。はすぐ、カバン置いて出てきて」
「え?」
「あと親には夜飯いらねーっつっとけよ」


 その台詞でようやく彼の目的が見えてくる。いいやでも、わたしの早とちりかもしれない。ぎゅっと口をつぐむ。目は輝いていたけれど、当真くんの次の言葉を聞くまでは我慢した。


「ラーメン食いに行こうぜ」


 ああ本当に。思うままに、大きく頷いた。








「ほい」


 当真くんおすすめのラーメン屋さんは学校とは真逆に位置する商店街の一角にあった。二人でのんびり歩いていたら着く頃には丁度いい具合にお腹は空いていて、二人用のテーブル席に座って醤油ラーメンを二つ注文した。
 当真くんに渡された割り箸をお礼を言って受け取る。間もなくして店員さんが運んできたどんぶりが思ってたより大きくて驚いたけれど、「んじゃ、いただきます」「いただきます」嬉しそうに手を合わせる当真くんに続いて唱えるだけにした。湯気の立ち上るお店のラーメンはとってもおいしそうだ。熱気で暖かい店内に頬を火照らせる。当真くんに倣ってパキンと割り箸を割り、ラーメンをすくって口に運ぶ。


「あふっ!」
「プッ…猫舌?」


 予想通りとても熱い。一口分口に含んで噛み切ってしまう。こくこくと頷きながらあまりの熱さに涙目になる。かーっと全身が熱い。なんとか飲み込み、お水を飲んでようやく落ち着くことができた。はあ、と息をつくと、向かいの当真くんは肘をついてけらけら笑っていた。


「だいじょうぶかー?」
「うん、……当真くんは大丈夫なの?」
「俺猫舌じゃねーもん。へーき」
「いいなあ……あっでも、とてもおいしいよ。当真くんありがとう」
「どーいたしまして。さあたんと食え」


 うん、と笑って頷く。当真くんは覚えててくれたのだろうか、わたしとの会話を。今度ラーメン屋さんに連れてってくれると言った、あの何気ないやりとりを。それも、疲れてるだろうお仕事が終わった次の日に、実行してくれちゃうのか。わたしだったら二週間もずっとお仕事してたら、次の日は一日中家にいて一歩も外に出たくないかもしれないよ。
 それに当真くん、他の友だちじゃなくてわたしを誘ってくれたんだ。今日は平日で授業は通常通りある。もしかしたら当真くんは今日、お家の人以外ではわたしとしか会ってないのかもしれない。むらかみくんとかほかりくんとか、誘おうと思えば誘えるはずなのに、その中でわたしを選んでくれた、のかもしれない。
 それと、今日わざわざ家に来て待ってくれてたのはなんでだろう。携帯があるから言ってくれれば学校が終わる時間に合わせられたはずだし、どこにだって待ち合わせたし、なんならわたしが当真くんのお家に行った。当真くんの考えを読むのはいつもむずかしい。…ああでも、猫に会いたかったからかなあ。わたしは、当真くんが家の前にいてとっても驚いたのだけど。わたしのためとか考えてしまって自意識過剰かも。思って一人恥ずかしくなり、ごまかすようにまぶたをこすった。


「今日さ、ラーメン食いに行こうって思ったら、前連れてくっつったの思い出してよ」
「、……」
「で、驚かそーと思って家の前で待ってた」


 ピタリと手が止まる。ゆっくりと、当真くんに顔を上げる。当真くんは箸を持った手で頬杖をついていて、わたしと目が合うとニッと笑った。


「大成功だった?」


 わたしはもう、紅潮した頬がなんで熱いのかもわからなくなって、ただ頷くだけしかできなかった。








 お代は当真くんが払ってくれると言った。レジで手提げからお財布を出そうとしたら止められて、そんなことを言われて驚いてしまった。当然のようにそれは大丈夫だと断ったけれど、当真くんはいいからいいからと軽い調子で、けれど引こうとはしなかった。


「俺すげー稼いでっから」


 まさか高校三年生の男の子からそんな台詞を聞く日が来るなんてなあ。よくはわからないけど、ボーダーの正隊員はお給料が出るらしいから、彼の言ったことは本当なんだろう。ついでにいうと当真くんはとても優秀な隊員らしいから、他の人よりも、それこそ当真くんの言う「すごく」稼いでいるんだろう。結局彼の言葉に反論することができず、わたしは申し訳なく思いながらも、ごちそうさまですとお辞儀をするのだった。

 お店を出た途端外の冷気に包まれて身体が震え上がる。お腹の中は暖かいけれど、鼻先はすぐに冷えてしまうだろう。はあと吐いた息は真っ白に空中に消えていく。「あーさみー」ダウンジャケットのポケットに両手を入れ肩をすくめる当真くんの息も白い。もう十二月なんだから普通なのかもしれない。いつも学校が終わったらすぐ帰るから、こんな暗い時間に外を出歩くのは今年寒くなって初めてのことだった。
 行きとラーメン屋さんでは、当真くんがいなかった二週間のことを、いろいろ話した。授業以外のことでは基本的に今ちゃんのことしか話してないけれど、今ちゃん経由で当真くんと仲のいいむらかみくんの話を聞いていたので、そのこともちょっと話せた。反応を見る限り、当真くんはボーダーの基地でもむらかみくんとしばらく会っていないようだった。その当真くんのことを知りたかったけれど、聞いちゃだめなような気がして質問するのはよした。代わりに、今日何してたのかと聞いたら、寝てたとあっさり返ってきて少しホッとする。


「やっぱ家はいいぜー足伸ばして寝られっからよ」
「…え、伸ばせなかったの?」
「そーそー。この二週間窮屈なとこに閉じ込められて死ぬかと思ったぜ」
「へ、へえ…」
「まあ真ん中一週間は楽しかったけど」


 つきっと胸が痛くなる。当真くんが楽しいと思ったことを知れないのが苦しい。手提げの持ち手をいじる。わたしは結局、ボーダーの人じゃないから、当真くんが基地で何をしているかを知ることができない。距離を、感じる。「あ、何してたかは内緒な」当真くんがいたずらっ子のようににやりと笑って口の前に人差し指を立ててみせた。ああ、少し楽になったかも。下手くそだろうけど、うん、と笑みを浮かべることができた。当真くんとわたしの間にある、圧倒的な隔たりは消えないけれど。




「じゃーまた明日な」


 当真くんは家まで送ってくれた。インターホンのところでお互い立ち止まり、お礼を言ったあと、また明日ねと返す。また学校で会えると思うと嬉しくてたまらなかった。わたしの知らない当真くんに落ち込むことはあるけれど、当真くんと一緒にいたいという気持ちはずっと薄れる気配がなかった。今日も、とっても楽しかった。幸せだなあと思うのだ。
 踵を返した当真くんを見送ろうとその場にとどまっていると、当真くんは一歩進んだあと「あ」と言ってすぐに立ち止まった。振り返る。


「そーだ。
「?」
「明日俺ん家泊まりに来ねえ?」