5.

 四限の美術が終わったあとは教室には帰らない。筆箱とハンドタオルと、使ったためしのない大きな教科書と一緒にお弁当を抱え美術室を出る。このまま保健室に向かうのだ。別館の二階から本館の一階までは少し距離があるけど、授業は早めに終わったので待たせずに済みそうだ。右手の親指と人差し指を擦り合わせる。パステルクレヨンは直に触るので描き終わったあとは手をよく洗わないといけなかった。次がご飯ならなおさらだ。

「四限終わったら弁当持って保健室来いよ」休み時間、教室を出る前に当真くんに言われたことだ。きっと保健室でお昼ご飯を食べるのだろう。お誘いは今までも何度かあったし、当真くんは保健委員会の人と親しいらしいので、そういう本来と違う保健室の使い方をするのを黙認されているようだった。
 三年生は大学受験に合わせて各々時間割が違う。家庭科など固定の授業もあるけれど、日本史や生物なんかは自分に合わせて選択することができる。わたしは受験で使う科目が少ないから、余った分の単位を美術に回した。同じように気を抜く目的で美術を選択している人は他のクラスにも二人いて、さらに二人、美術関係の大学へ進学することを考えている人がいた。少人数で展開される授業は黙々と好きな絵に没頭できるからすきだった。

 一階の中央廊下を曲がると保健室のプレートが見える。閉じた引き戸の前で立ち止まり、二回ノックする。返事は待たなくていい。ガラガラとスライドさせるけど、予想通り目に入る人は一人もいなかった。わたしは迷わず左手の間仕切りへ目を向け、歩み寄る。
 当真くんも四限は勉強しない科目を取っている。それで先週、先生が病気になって自習だったと言っていた。だから今日も、そうなのかもしれない。


「……」


 カーテンから覗いたそこは、何もかも白い空間で、当真くんだけが黒であった。白いシーツと白い掛け布団の間に潜り込む学ラン姿の彼はこちらに背を向けて寝ている。やっぱり、今週も自習だったんだなあ。

 そばに近づいてみても起きる気配はない。起こした方がいいのかな、でもせっかく寝てるのに悪い気もする。でもご飯食べる時間なくなっちゃうしなあ…。お弁当以外をそばのテーブルに置いたらいよいよ手持ち無沙汰になってしまい、意味もなくキョロキョロする。

 するともぞりと布団が動いた。ハッとそちらを向くと、当真くんがアイマスクを上に外しながら、ゆっくりとわたしに振り返ったではないか。「…あ?もう授業終わった?」「うん、」頷くと当真くんはやはりゆっくりと起き上がり背伸びをして、そんじゃ飯食おうぜと提案した。外したアイマスクが学ランのポケットにしまわれるのを目で追いながら、もう一度頷く。


「起こしてくれてよかったのに」
「悪いと思って…」
「なんで?飯食おうって誘っ…てはねーか。けど言わなくてもわかってたろ。ほれ、どーぞ」
「お、お邪魔します」


 当真くんがベッドに腰掛けるように座り直し、隣をポンポンと叩く。少し気恥ずかしくておずおずと腰を下ろす。保健室のベッドは高いから、足が付くように座ると太ももが坂になってしまってお弁当箱が置けない。なので膝裏がベッドにくっ付くくらい奥まで座るのがコツだ。わたしと違って背が高くて足も長い当真くんはそんな心配もなく、ゆったりと座って足もしっかり床についている。テーブルに置いてあった黒いお弁当箱を取って広げていた。
 男の子の当真くんはお弁当箱もわたしのより一回り大きい。一段目はおかず、二段目はご飯だ。小袋に入ったふりかけを自分でかけるのが当真くん家流らしい。当真くんのご飯事情なら他にも知ってる。すきな食べ物はラーメンだ。三門市のいろんな場所のラーメン屋さんに行ったことがあるらしく、滅多にお店で食べないと言ったら今度連れてってやると言ってくれた。わたしはそれがとても嬉しくて、実際に決行されようがされまいが、もう満足だった。


「また手止まってんぞー」


 顔の前でお箸を持った手を振られて我に返る。またやってしまった。「ご、ごめん…」「そんなに俺の弁当うまそう?」「あ、ちが、いや違くないけど…!」「はは、いーってそんな必死になんなくて」わかってるし、と笑う当真くんを見上げ、眉尻を下げて笑う。当真くんはわたしがいつもぼーっとしてるとき、当真くんのことを考えてるって知ってるのかな。だとしたら結構恥ずかしい。そうでなくてもこんな、ぼーっとしいの奴に構ってくれる当真くんは心が広すぎるのに。


「おまえさー…」
「う、うん」
「今までにすきな奴いた?」


 予想外すぎる問いかけに目をまん丸に見開く。口もあいてたかもしれない。


「い、いない…」


 どうしてそんなことを聞くんだろう。聞きたくなるような素振りを見せただろうか。当真くんの調子は変わらない。純粋に疑問に思っているだけのトーンと表情で、わたしを射抜いていた。


「いまは?」
「……!」


 頭の混乱は最高潮だ。心臓はうるさいし頬もかっかと火照っている。目を落とし、お箸とお弁当箱を落とさないよう手に力を入れる。
 まさかこんな、当真くんに聞かれるなんて思ってなかったのだ。当真くんはわかってるんじゃないのか、もしかして、わかってて聞いてるのかな、だとしたらわたしは、何て答えるのが正解なんだろう。ぎゅっと目をつむる。

 こくんと、小さく頷いた。それが精一杯だった。


「そっかそっか。だよなー」


 わさわさと頭を撫でられ顔を上げると、当真くんは目を細めてどこか安心したような笑みを浮かべていた。それが意外でまたぽかんと口を開けてしまう。


「おまえはずっとそのまんまでいてくれよー」


 髪の毛を梳いて離れていく指を目で追う。どくどくと心臓はうるさくて、息が苦しかった。

 当真くんが何を思って聞いたのかは全然わからない。けど、そんなこと言われなくたって、わたしはきっと変われないんだよ。顔は上げられず、目線は斜め下、当真くんのお弁当箱に注がれていた。