2.

 トイレから戻ってくると柚宇ちゃんに手招きをされた。なんだろう。首を傾げて考えてみるけれど心当たりはない。とにかくと、彼女に歩み寄る。柚宇ちゃんのブラウンのカーディガンはスカートの短さと相まって他の人より大きく見える。イスの背もたれに寄りかかりながら立っている彼女とは反対に、その正面に座っている今ちゃんのカーディガンは黒色で、裾から見えるスカートは膝上十センチくらいの落ち着いた長さだ。ただ制服を着てるだけなのに、二人ともよく似合ってるなあと思う。そばまで行くと、柚宇ちゃんがこてんと首を傾げた。


ちゃんも勉強教わりたいよね?」
「あ、教わりたい!」
「まあいいけど……」


 柚宇ちゃんの一言で話題がわかった。今度の中間テストの試験勉強を一緒にやろうという話だ。先生はもちろん今ちゃん。今ちゃんはとても優秀な人で、前回の前期期末テストでは柚宇ちゃんと当真くんを赤点から回避させた逸話を持っているほどだ。ちなみにわたしはそのテストで、補講がない科目で赤点を叩き出している。
 今ちゃんが苦笑いを浮かべる。わたしも柚宇ちゃんも、気を抜くとすぐに赤点に転落する学力なので、この二人の面倒を見るのは骨だろう。それでも嫌と言わないで、しかも当初話に入っていなかったわたしまで誘ってくれるんだから、優しい人だなあと思う。
今ちゃんが当真くんと柚宇ちゃんの勉強を見るのは、なんでも三人が所属しているボーダーの任務に支障を来さないためらしい。確かに学校に拘束されればされるほどお仕事の方には時間を割けなくなる。学業が学生の本分とはいえ、補講なんて本来時間を割かなくていいものであることには違いない。
 無意識に指先をいじっていた。それでも当真くんは高校三年生初めてのテストで数学の赤点を取って、そのおかげでわたしは初めて彼としゃべることができたので、微妙な心境だ。もっとも、こういう関係になった今、わたしも当真くんももちろん柚宇ちゃんも、補講なんてものは受ける価値はないのだけれど。


「じゃあ来週の土曜は?柚宇ちゃん防衛任務ある?」
「ないよ〜オッケー」
「わたしも暇だよ」
「あとは当真くんか」


 名前が挙がってどきっとしてしまう。さっきまで自分でも考えていたというのに、だ。誰の顔も見てられず、咄嗟にいじっていた手元に目を落とす。そうか、当真くんも来るのかあ。学校の外で会うのは久しぶりだなあ…。


ちゃんわかりやすいー」


 柚宇ちゃんにつんつんと頬をつつかれる。袖口が手の甲まで隠していて、そこから伸びる指先だけが見える。俯いていた顔を上げると、今ちゃんも呆れたように笑っていた。居心地は悪くなくて、へにゃりと笑ってしまう。当真くんと話すようになってから仲良くなった二人には、わたしの気持ちなんてものはお見通しなんだそうだ。割とすぐに「ちゃんて当真くんのことすきなんだ?」って聞かれた気がする。


「あ、当真くんー」
「……!」
「なに?」


 噂をすれば影。他のクラスに行っていた当真くんが戻ってきたらしい。柚宇ちゃんの呼びかけに応じた当真くんがいつもの調子でこちらにやって来るのが気配でもわかった。振り向くと目が合う。チャコールのカーディガンの下はワイシャツのボタンを二つ開けていて、中には黒いインナーが見えていた。気恥ずかしくなってしまい目を逸らす。当真くんは机と机の間の通路に立っていたわたしの隣で立ち止ったようだ。両手がスラックスのポケットの中に入っているのを、俯いた視界で捉える。


「勉強会、今度の土曜日にやろうって話してるんだけど」
「おっ助けてくれんの今ちゃん!さんきゅー」
「冬島さんにも頼まれてるし……で、当真くん空いてる?」
「空いてる空いてる。俺数学頼むわ。期末終わってから一回も授業聞いてねー」
「わたし英語〜」
「勉強するのはあんたたちだからね…」


「へーい」間延びした返事を返しながら、当真くんはわたしの肩に手を回して寄りかかる。身長差的に丁度いいのか、当真くんはよくこういうことをするのだ。その度わたしが緊張して硬直してしまうの、君なら気付いてるだろう。


「そういや、も参戦すんの?」
「、うん」
「そっかそっか。おまえも赤点仲間だもんなー」


 肩に回した腕を曲げ、髪の毛を掻き上げられるようにわさわさと撫でられる。乱暴な手つきに、心臓はどっどっと大きく高鳴るばかりだ。


「場所どうする〜?鈴鳴ってわけにもいかないし」
「うちん家ならいいよ」
「えっほんと?やったー今ちゃん家久しぶりだー」
「俺家知らねーわ。は?」
「まえ行ったことある、よ」
「じゃあ待ち合わせして行こーぜ。どっちん家が近えの?」
「え、っと、当真くん家かな……わたしが当真くん家行く」


「さんきゅー頼むわ」ニッと笑った当真くんを至近距離で見上げる。それに見とれていると、予鈴が鳴ったのをきっかけに腕は離れていった。「じゃーなー」ようやく解放される、思うと同時に名残惜しいと思うこの感覚は、当真くんに触られるたび感じることだった。


「相変わらずいいようにされてるわね…」
「当真くんの手ひらの上って感じ」


 呆れ顔で腕を組む今ちゃんとにまにま笑う柚宇ちゃん。二人にはやっぱり気の抜けた笑みを浮かべるだけして、わたしも自分の席に戻ることにした。
 五限は数学だ。当真くんは確かに毎回のように机に伏せて寝ている。今日もそうなのだろうか。高い背丈には窮屈そうなイスに座ってがさごそと机の中を探る彼を少し離れた後ろの席から眺める。先生が入ってくる頃には用意は済んだらしく、ゆったりと背もたれに寄りかかっていた。それを見届けてから、視線を先生に移す。出席簿にチェックをつけているのを毎授業じっと見てしまうのはどうしてだろうか。空席と名前を照らし合わせながら進めていく先生を眺めながら、わたしはいまさっき今ちゃんと柚宇ちゃんに言われたことをぼんやりと思い出していた。

 二人の言う通りなのかもしれない。でも、いいようにされてたって、当真くんの手のひらの上だって、何だっていい。そう思わせるのが当真くんだった。

 カーディガンのポケットに入れていた携帯が振動する。先生には見つからないように、机の下でロックを外す。メッセージだ。


[今日一緒に帰ろーぜ]


 ゆっくりと、目を閉じて。思わず机に伏せてしまう。……何でもいい、何でもいいよ、わたし当真くんといられるなら何でもいいんだよ。じわりと涙まで浮かんでくる。こんな簡単に泣いてしまうことが気持ちの大きさをはかることにはならないけれど、少なくとも当真くんのもたらす力の大きさは、わかってほしかった。






 そのあと少しだけ顔を上げて見てみると、当真くんはすでに顔を伏せて寝る体勢になっていた。