そろった前髪にまつ毛が触れるんじゃないかと思う。やや吊り上がった双眸が、わたしを見つめていた。
 結花ちゃんの前髪がこんなに長いのは初めて見た。毎日見てるから気付かなかったけれどそれは明らかで、さっきも彼女は無意識のうちに指先で前髪を横に流していた。「結花ちゃん前髪、長いね」人差し指を水平にして、自分のまぶたに当てるジェスチャー。結花ちゃんはそれを見て一度瞬きをしてから、「ああ、」と得心して少し俯いた。左右に軽く頭を振る。肩につかないまっすぐな髪に、物理で習うような力が加わって揺れる。


「そろそろ切ろうと思ってたんだけど」
「目にかかりそうだね」
「ね」


 やんなっちゃうと言いたげにはにかむ結花ちゃんにわたしもにこにこ笑い返す。前髪切るのってついつい忘れちゃうよね。もしかしたらボーダーの仕事が忙しくて、文字通り心を亡くしていたのかもしれない。最近は学校以外で結花ちゃんと会うことがめっきり減ったから。行きたいところあっても誘うのが躊躇われるよ、それでも無理言って、ダメ元で「土曜日遊ばない?」って誘っちゃうんだけれど。結花ちゃんは仕事さえなければ「いいわよ」って快諾してくれるから、わたしは調子に乗ってまた誘う。このやろう!って怒らないでよ、だって人生の楽しみなんだもの、大目に見てほしい。


「わたしの前髪のことはいいから、は頭動かして。手止まってるよ」
「ぎゃ」


 シャーペンを握る右手の甲をペチッと叩かれる。一瞬感じたひんやりとした指の感触にどきっとする。

 突然だけれど、わたしの生き甲斐は結花ちゃんの人生の伴侶を探すことだ。結花ちゃんに似合いの男の子を見つけて二人が付き合って結婚してほしい。とびっきり幸せな結花ちゃんをすぐそばで見て、わたしもとびっきり幸せな気持ちになりたい。結花ちゃんの彼氏は優しくておおらかで背が高くて、結花ちゃんくらい頭がよくて博識で、スポーツとか歌うのはちょっと苦手な、休日は図書館で本を借りて読むような人がいい。前に本人目の前にそう力説したとき、彼女はちょっと考えたあと、「が頭よくなったらそんな感じの人になりそうね」と答えた。浅はかなわたしはそれを聞いて一瞬嬉しくなったけど、よく考えたら結花ちゃんの彼氏として頭が悪いことは致命的だったので、ううむと唸ってしまった。
 何はともあれ、頭が悪くてスポーツも音楽も文学にも明るくないわたしは大好きな結花ちゃんの何かになりたくて生きているのである。今はさしずめ「教え子」だろうか。物理の問題集に目を落として、すぐに顔を上げる。結花ちゃんは右半分の前髪を横に流しながらわたしと目を合わせた。「聞いて!」「ん?」


「こないだ結花ちゃんを表す言葉を覚えたんだよ!」
「なに?」


 結花ちゃんは毎回ちゃんと耳を傾けてくれるからいい人だなあと思う。わたしもちょっとだけど本を読むようになったのだ。その物語では大和撫子な女の子に恋をした男の人がひたすら奮闘する様子が一貫して描かれていた。そこでの彼のモノローグから引用。わたしは胸を張ってすうっと息を吸い込む。


「立てば縮尺 座ればミカン 歩く姿は花の色!」
「一つも合ってないわよ」


 間髪入れず結花ちゃんのツッコミ。ひゅんっと背筋が曲がる。あれ、おかしいな、ちゃんと覚えたのに。結花ちゃんにぴったりだと思って、今度言ってあげようと思って一所懸命覚えたのに、なあ…。びっくりするくらい決まらなくて、勢いは一気にしぼんでしまう。「でも褒めてくれてるのはわかったわ。ありがとう」でも呆れたように笑う結花ちゃんが優しくて、単純なわたしはパアッと嬉しくなるのだった。


「本当は何て言うの?」
「…、……自分で言ってるみたいだから嫌よ」


 一度口を開いて、閉じて、すっと目を逸らした結花ちゃん。恥ずかしがってるらしい。心を込めた褒め言葉だから、その気持ちはわからないでもないなあ。なのでわたしも無理は言わず、「そっかあ」聞き分けのいい子ぶって引き下がる。わたしはその言葉を聞いたとき、着物を着た結花ちゃんを想像したよ。結花ちゃんによく似合う、……。


「………」


 結花ちゃんごめんねえ、やっぱりわたし、頭がよくなったところであなたの理想の人にはなれないよ。だってこんなに自分ばっかで心が狭い奴、結花ちゃんにはちっとも似合わないんだもの。「が頭よくなったらそんな感じの人になりそうね」やっぱり喜んでよかった。結花ちゃんのあれは極上の褒め言葉だった。彼女がわたしを意識の内に置いてくれているという事実だった。それで満足できたら、どんなによかっただろう。シャーペンを両手で持ち、クリップの部分を親指で反らす。パチンと音が鳴る。結花ちゃんが何か言おうとしたのを、先に遮ってしまう。


「ねえねえ結花ちゃん」
「なに?」
「いつかわたしに彼氏ができたら、結花ちゃんは喜ぶ?」
「もちろんよ」


 よどみなく返ってきた肯定に、わたしの表情は笑ったまま。きっとそんなことは一生起こらないよと心の中で思う。

 だってもうわたしには結花ちゃんの理想の男の子を見つけることくらいしか目標がないんだもの。結花ちゃんが幸せなとき幸せを感じれる人になれたら。でも本当は、あなたの「友達」じゃなくて、なりたいものはとっくに決まってるんだよ。