レゾンデートル」>>



 村上くんが気を悪くしたのは観測史上初だった。笑うことはあっても怒るところは見たことがなかったので、彼が眉をひそめたときはさすがに居た堪れなくなったものの、ごめんの一つも言えず口を噤むだけだった。


 保健室のベッドに仰向けになる。掛け布団を敷布団として扱う邪道をしていても咎める人はどこにもいない。だってわたしも寝るつもりない。頭冷やすために来ただけだもの、布団なんか被ったら塞ぎ込んでしまう。
 村上くんじゃなかったらもっと顔をしかめて怒りを露わにしてたと思う。村上くんだからそこまで怖くなくて、そもそも村上くんは怒らないから、だからわたしは彼が優しいのをいいことに自分の思いの丈を彼に、トゲとして刺したのだ。腹を立てられても仕方ない。仕方ないけど、まだ謝りたくなかった。

 ガラリと保健室の扉が開く。人物の当てを二人に絞り、片方の村上くんではないことを祈る。こういうとき村上くんは来るだろうか?彼の人となりを知ってるつもりだけど、それは対わたし用ではないのでわからない。むかつく人にそこまで優しくなれるのだろうか。そこまで優しくなくても君はすでにわたしの私怨の対象だよ、残念でした。


「ここにいたのね」


 結花ちゃん。もう一人の当てが当たった。嬉しいなあ。嬉しいけど、いまは会いたく、なかったなあ。結花ちゃん相手にそんなことを思ってしまうことが悲しくてじんわり涙が滲んだ。わたしを覗き込む彼女の顔に影がかかる。それでも優しい表情が翳ってるわけじゃないのはわかる。


「結花ちゃん…」
「いきなり逃げ出して、心配したじゃない」
「うん、ごめんね…」


 結花ちゃんにはすんなり謝れる。悪いことをしたと思ってる。戻ってきた結花ちゃんの前から走り去った。あのあとすぐ探してくれたのかな、そんなわけないか。あの場には村上くんもいたんだし。思い出して心臓がじくじく痛む。自分を追い込んで、村上くんと結花ちゃんを巻き込んでいるのだ。すごいなあ、誰も得しないよ。なのにやめられなかったのはどうしてだろう。


「鋼くん怒ったわけじゃないわよ」
「結花ちゃん村上くんの肩持たないでえ」
「そういうのじゃないよ、。泣かないの」


 涙腺は結花ちゃんの一言で堰を切る。溢れる涙が顔の横を伝って耳に届く。両手で拭う様が哀れだ。嗚咽も漏れてきた。虚しい、虚しい。


「ほら、


 わたしの名前が優しく聞こえる。手の隙間から見上げると結花ちゃんがハンカチを差し出していた。目、擦らないの。赤くなっちゃうよ。そんなことを言う彼女は、いいのだろうか。さっさとわたしを見限らないと、この先もっと面倒臭いことになるって、思わないだろうか。
 厚意で差し出されたそれを受け取り、ゆっくりと上体を起こす。柔らかいハンカチを両目に当てると涙が染み込んでいくのがわかった。結花ちゃん家の柔軟剤の匂いが鼻腔をかすめる。前にお部屋に遊びに行ったときに嗅いだ匂いと同じだった。


「話を聞いてほしいって言ってたよ」
「聞かなくてもわかるもの」
「そんなこと言って、」
「村上くんと結花ちゃんの間には何もないって、わかってるもの」


「……」結花ちゃんが、はあ、と溜め息をつく。じゃあどうして、って言ってる。そうどうしてわたしは全部わかってるのに勝手な想像で村上くんを苛立たせたのか。明らかになったのは結花ちゃんの人生の伴侶が現れたとき、わたしは恨み言を吐き続け相手を苛立たせるということだった。「わたし結花ちゃんがすきなの」最後に言い放った台詞を村上くんはどう受け取っただろうか。散々ずるいうらやましいとぶちまける前だったら、彼なら応援してくれそうで怖い。
 わたしに結花ちゃんは侵せない。身の程知らずなことはできない。そんな資格はないことがわかってしまった。わたしはいつまで経っても結花ちゃんにふさわしい人間になれない。


「結花ちゃんにすきな人ができたら、わたしに言わないでね。絶対内緒にしてね」
「……」


 結花ちゃんは困ったように眉尻を下げ首を傾げた。思った通りの反応だ、結花ちゃんからしたら意味不明な発言だろう。わたしにとっては、結花ちゃんにとっての最後のわたし、「友達」でいるための予防線なのだけど。

 わたしが一生友達で居続ける。そうしたら、彼女は不可侵で居続けてくれるだろうか。


「結花ちゃんの運命の人がわたしだったらよかった」


 わたしは懲りずに、「いいよ」って笑ってくれる未来を夢見てる。