固いブレザーは動きにくい。試着した日以来初めて袖を通したこれは、第一志望で合格した高校の制服だ。この辺りの公立高校の中ではトップクラスに可愛いだろうデザインには大満足なので、入学初日の今日はスキップをしたい気分である。肘を曲げるとシワになりそうだからお行儀よく、少ない動作で朝の支度を終えたわたしは部屋の時計を見上げてふーんと笑ってみせる。まだまだ時間は早いけど、もう出ちゃおうかなあ!中学はスニーカーを履いてたから、今年からピカピカのローファーを履けるのも嬉しいのだ。玄関でこげ茶の澄ましたデザインの革靴に足を入れ、いつもやってしまうつま先をトントンと地面に打つのもやらず、「いってきまーす!」リビングにいるお母さんにあいさつして意気揚々とドアを開けた。
「あっ清光はやい!」
なんと、お向かいの清光がわたしの家の前で待っていた。いつも早いんだもんなあ、わたし待ち合わせで勝ったこと今までで一度もないよ。今日は約束の十分も前に家を出たっていうのに、清光は一体いつからここで待ってたんだろう。黒い郵便受けの隣に立って、どこを見てるのかわからないような澄まし顔で俯いていた清光は、わたしの声でゆっくりと顔を上げた。にこにこしながら手を振ると、相変わらずの無表情で振り返してくれる。わたしと同じダークグレーのブレザーと、男の子用の灰色のスラックス。清光は背は高くないけど細身で顔も綺麗だから、何を着てもだいたい似合うのだ。…似合うのだけど……?!
「清光、マフラーつけてくの?!」
正面を見て気付いた。清光、赤いマフラーを巻いてるのだ。この春の陽気に。制服の上から。さすがにもう四月で寒くないし、上着もいらないくらいだ。どう見ても季節外れなのに、当の清光は気にならないらしく、「うん」と肯定してしまう。あわあわと慌ててるのはわたしだけみたいだ。中学でも秋ぐらいからずっと巻いてたけど、そもそも暑くないのかな。わたし自分が汗っかきだから見てるだけで暑いよ!
「初日から変に目立っちゃうよ〜…。怖い先輩に目つけられたら大変だよ…!」
「が外せって言うなら外す」
「ん〜…!」
でも清光があっさり引き下がってしまったらしまったでもどかしい。せっかく清光が珍しく何かにこだわってるんだから、尊重してあげたいよ。考えながら、前に垂らしてるマフラーの端を持ってパタパタする。薄いけどしっかりした生地のマフラーは、小さい頃から清光が大切にしてる物だ。もしかしたら今となっては、唯一かもしれない。
「…あっ!じゃあ、スクバに付けよう!」
清光が肩にかけてるバッグの存在でピンと思いついた。わたしはお店で可愛いリュックを見つけたのでリュックサックにしたけど、清光はスクバが似合いそうだからスクバにしなって言ったのだ。春休みのわたし正解だったなあ!名案だと言わんばかりに清光の首からマフラーを取り、スクールバッグの持ち手部分に巻いて蝶々結びを作る。思った通り、大きなリボンが完成した。「かわいー!」満足げに笑いながらマフラーの結び目をポンポンと叩く。これなら、きっとそこまで目立たないぞ。
スクバについたマフラーに目を落とした清光が、淡々とした声でありがとうと言う。それににこにこしながらいえいえと返し、ようやく二人揃って高校へ向うのだった。
「でもどうしてマフラーつけてこうとしたの?」
高校へは歩いて行ける距離だ。偏差値もそこそこで、制服も可愛くて、通いやすい。もうここ以外は考える必要なかったくらい、わたしにとっては丁度いい高校だった。進路をちゃんと考えてなかった清光に、一緒に行こうと誘ったのもわたしだ。とは言っても清光の成績はわたしの数倍良かったので、不合格とかの心配をお母さんたちにされたのはもっぱらわたしだったのだけど。大きなリボンを揺らしながら、清光は進行方向やや下向きの目線のまま返す。
「わからない。気がついたら巻いてた」
「そっかあーでも清光は赤似合うもんね!いいなー」
大口を開けて笑う。清光は小さい頃から綺麗だったから、赤いものを身につけてると戦隊モノのヒーローみたいな「かっこいい」じゃなくて、CMに出てくるような「美人」に映る。それを言うと清光は、齢九歳ながらふふんと鼻で笑うのだ。彼を見たわたしもイヒヒとにやにやしながら笑う。そんなことを何度もやった。
「よくわからない」
けれど目の前の清光は、何も響いてない表情で呟くだけだった。
「……あー…あはは…」
居た堪れず前髪を梳く。ああ、…あーあ。清光に何を言っても響かないのは最早いつものことだ。のれんに腕押しというらしい。褒めたって怒ったって脅したって、生気の感じない薄ぼんやりした表情が変わることはほとんどない。すきなことや趣味だったり、何かに興味を持つことがなくなった清光は無味乾燥な日々を送ってる。
そんな清光を、生まれたときから一緒にいるわたしは放っておけないで、今日も彼の手を引っぱっているのだ。
「…あ!そういえば安定と同じクラスかなー?いつわかるんだろうね!」
話を変えようとパッと顔を上げる。安定も生まれたときから一緒にいた幼なじみで、小学校低学年のときに転校してしまった男の子だ。わたしと清光のことを家族以外で一番よく知っているその人は、今年ようやく近くに引っ越してきて同じ高校に通えるんだと、初めてした携帯でのやりとりで知った。
校門をくぐり、新入生が集まる掲示板の前に行く。先生と思われる男の人が拡声器で、自分のクラスを確認したら体育館に行くよう指示していた。どうやらもうクラス発表が行われてるようだ。ほとんどがぼっちで自分のクラスを確認している中、数組は知り合いなのか話し声も聞こえていた。わたしも清光が後ろについてきてるのを確認しながら、人だかりを掻き分け掲示板の前に立つ。ずらっと並ぶ新入生の名前に圧倒されてしまう。うわあ、ここから探すの大変そうだ…。
「B組」
「…あ、ほんとだ。え、同じクラスだ!やったー!」
清光の視線をたどって目を滑らせると二人の名前を同じ列に見つけた。嬉しくてピョンピョン飛び跳ねてしまう。すごい、同中だから絶対離れちゃうと思ってたよ!先生わかってるな〜!嬉しさに胸がいっぱいになる。友達できるか不安だったけど、清光がいるなら安心だ!さあ確認もしたことだし体育館行こー!清光に声をかけようと後ろを向く。
「清光、ー」
ん? 呼ばれた声にグルッと首をひねる。同級生の人混みの中、少し離れたところから駆け寄ってくる男の子が見えた。「……ん?」短い外ハネ気味の黒髪を揺らしながら手を振るその人には、確かに面影があった。目をまん丸にしてしまう。
「やすさだ?」
「うん。久しぶり」
「わー久しぶりー!背伸びたねー!」
突然の登場にわっと盛り上がる。ぴょんぴょん飛び跳ねながら両手を出すと安定も構えてくれて、二人でパチパチと手を合わせた。ノリがいいの変わってない!安定、背はもちろん、声も低くなったし、かっこよくなったなあ!名前呼ばれてどきっとしちゃったよ。それでも、あははと笑った顔が記憶の中の安定と同じでホッとする。
「は変わってないなあ。落ち着き持ちなって、絶対清光にまだ言われてるだろ」
「え、」
違う意味でどきっとする。背筋が冷える感覚だ。途端に安定と目が合わせられなくなって、斜め下へ逃げてしまう。……安定は、やっぱり知らない。お互い携帯を持ち始めて連絡を取ったときに、言おうか迷って、結局言えなかったこと。『清光携帯欲しがってないの?あいつなら真っ先に欲しがりそうなのに』言うチャンスは何度もあったのに言えなかったのは、わたし自身がうまく説明できる気がしなかったからだ。
わたしのそばで黙って立っている清光にようやく目がいったのだろう。さっきから何も言わない清光に安定はきょとんとしたあと、首を傾げて問いかけた。
「清光?僕のこと忘れた?」
「覚えてる。久しぶり」
「……」
安定の顔がどんどん怪訝になっていくのがわかる。ああわたし、今安定が何思ってるのかよくわかるよ。わたしも初めて今の清光としゃべったとき、同じことを考えてたもの。
「…清光、頭打った?」
よっぽど情けない顔をしていたのだろう、説明を求める安定と目が合うと、彼の表情はさらに歪んだ。
わたしの脳裏には六年前の記憶が思い起こされていた。病室で目覚めた清光を見ていた。わたしと同じように頭に包帯を巻いた清光。目が合ったのに、何も言ってくれなかった。まるで生きてないみたいだと思った。あの日からだ。
あの日から清光は、からっぽだ。
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