とはいえ、男性経験のないわたしにできることといえば、先輩に積極的に話しかけることくらいだった。今まで警戒しかしてこなかった彼に絡みに行くことに最初は慣れなかったけれど、回数を重ねていくと次第に楽しさを覚えるようになった。いくら迅先輩が普段何を考えているのかわからなくても、こちらから声をかけると戸惑う様子が見受けられ、その瞬間だけ彼の心うちがわかるようで、なんだか言葉にし難い感情がむくむくと湧いてくるのだ。
誰といても浮かべている笑顔とは少し違う、困ったような表情を見ているうちに、わたしはだんだんと、そう、この人のことが気になるようになっていた。自分からしておきながら変な関係だと思っていたものだから、先輩に困り顔で「ちゃん、前のめりでときどき怖い」と言われても、怒ることも傷つくこともなかった。
「ちゃん、迅先輩のことすきになってる」
可愛い猫目を細めて上品に微笑む歌歩ちゃん。昼時のピークがすぎた三限の時間、食堂で時間を潰している最中の会話だった。
オレンジジュースをストローで吸い込んでいる途中だったわたしは、歌歩ちゃんのとんでもない発言に対し下品にも口の中で「んー!」と反応してしまう。ごくんと飲み込んでから、開く。
「違うよ!わたしまだ嵐山先輩が…!」
「ふふ、まだって言った」
「違う…!そうじゃなくて!」
歌歩ちゃんはもう確信しているかのように、食堂のイスに寄りかかりながらにこにこと微笑んでいる。わたしはというと、シンプルにバツが悪かった。指をわなわなと震わせ、口をあぐあぐと動かす。なにせ、迅先輩に関する感情は、端的な言語化が難しいのだ。
「迅先輩……だってあのとき、ほっといていいのか?!って思っちゃったんだもん…!嵐山先輩はわたしがどうこうできる人じゃないししたいとも思わないけど、迅先輩は、なんか……」
歌歩ちゃんは勘違いしてる。これは恋なんて心躍るものではなく、たぶん、意地とか自棄とか好奇心とか、あとは憐憫とか、庇護欲に似た何かなのだ。わたしは、迅先輩が何かに怯える顔を見ると、無性に何とかしてあげたいと思ってしまう。あの悪魔のようなピエロから、目の前の迅先輩を遠ざけてあげたくなる。自己満足と評されてしかるべきことかもしれない。でも少なくともわたしはきっと、彼の恐怖の対象を知っているのだ。放っておくには先輩とのこれまでの関係が鮮烈すぎた。
「でも、もし迅先輩がちゃんに構わなくなったらさみしいと思うでしょ?」
「そんなこと…あるかもしれないけど……」
真っ向から否定してしまったら元気がなくなる気がして、ずるい返答をしてしまう。背もたれに寄りかかり、俯く。
「やあちゃん。三上ちゃんも」
ガバッと顔を上げる。「こんにちは」歌歩ちゃんが流暢にあいさつをしたその人は、わたしたちのテーブル席の横で立ち止まり見下ろしていた。――迅先輩。
唐突に現れた彼に、今しがたしていた会話のせいで背中に冷や汗がにじむ。いつもみたいにあいさつをしたい気持ちはどこかへ飛んでいき、思考が停止してしまう。
「噂をすれば、だね」
「え?なに、俺の話してたの?」
「な、なんでもないです!」
「えー、気になるな」
人の良さそうな笑みを浮かべる迅先輩は普段通りに見える。わたしたちの会話は聞こえていなかったようだ。よかった、とこっそり胸を撫で下ろす。
「じゃあわたし、そろそろ行くね」
そう言って歌歩ちゃんが席を立つ。腕時計に目を落とすと、時刻は四限開始の十分前を指していた。たしかにそろそろだ。歌歩ちゃんはこれからバイトだと言っていた。「うん。頑張ってね。また明日」見送りの言葉に笑顔で応えた彼女が食堂の出口に向かう姿を、なんとも言えない眼差しで追う。……歌歩ちゃん、もしかしたら気を遣ってくれたのかもしれない。だから、違うって言ってるのになあ…!もどかしさを胸に秘めたまま、同じく彼女を目で見送っていた迅先輩を見上げる。
「…先輩は四限ですか?」
「うん。ちゃんも?」
「はい。第二校舎で」
「俺もだよ。一緒に行かない?」
はい、と悩むことなく頷く。特に約束をしていたわけではないけれど、以前会話の中で時間割の話をしたことがあるので、迅先輩はわかっていて声をかけたのかもしれない。そんな自意識過剰な考えが浮かんで、苦笑いを禁じ得ない。荷物をまとめて席を立つ。
迅先輩の隣を歩くことに、思っていたよりすぐに慣れることができた。この人との会話には、警戒していた頃が嘘みたいに悪意がちらつくことがなく、とても気が楽だった。彼はわたしが何を話しても聞いてくれ、向き合ってくれているような気がいつもしていた。第一印象と違って、誠実な人のようにも感じていた。知ってみれば案外いい人なのだ。そりゃあ、あの嵐山先輩と友達なんだから、いい人に決まってるか。嵐山先輩もそう言ってたし。
「あっという間に秋ですね」
「昨日普通に寒かったよね。そろそろ衣替えしないとな」
「迅先輩、洋服多い人ですか?」
「全然。いつもすぐに終わるよ」
歌歩ちゃんと話すときと同じ感覚で取り留めない話題を口にする。この二ヶ月で、彼という人間の輪郭がそれなりに象れるようになったと思う。到底、信用に値しないなんて思えなかった。
隣を見上げる。茶色の髪が揺れている。地面を見下ろす横顔。秋晴れの空に、この人の隣は存外、居心地がよかった。
「先輩。講義のあと時間あります?よければお茶しません?」
「うん、いいよ」
でもこれは、恋なんて心躍るものなどではなく、あくまで意地とか自棄とか好奇心とか、あとは憐憫とか、庇護欲に似た何かなのだ。勘違いしてはいけない。わたしも。
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