いざ呼びかける段になって気恥ずかしくなってしまったわたしは、それなりに控えめな声で名前を口にしたつもりだった。大学近くの居酒屋が立ち並ぶ通りは夜でも学生や社会人の行き交いで賑わっている。今にも雑踏に紛れて見えなくなりそうな彼の背中を追う。
「迅先輩、」気付かないかもしれない、と不安に駆られた次の瞬間には、彼は足を止め、こちらを振り返っていた。いざ反応されると驚いてしまう。いろんな音が耳に届いているだろうに、よくわかったな、と場違いにも関心してしまう。
とにかく、気付いてくれてよかった。安堵しながら駆け寄ると、わたしを見つめる目がきょとんと丸くなっているのがわかった。えっ、と思わず怯んでしまう。
「ちゃん」
「あ、えっ…と……」
「来てくれたんだ」
笑みを浮かべ首を傾げた迅先輩に、安堵と居た堪れなさが同時に襲う。……まずい、いらないことをしたかもしれない。だって迅先輩、言葉とは裏腹に、貼り付けたような、大して求めていなかったような顔をしてる。さっきの席を立ったときの衝動はどこへやら、勢いは削がれ完全に尻込みしてしまう。
「な、なんか、先輩、様子が変だったので……」
「変?…少し酔ってるからかな。迷惑かけてたらごめんね」
依然わざとらしい笑顔を浮かべる先輩に眉をひそめる。居酒屋で見た、照明の影になった彼の表情を思い出す。あれは酔っているときの迅先輩だったのか?とてもそうは思えない。すごく下手くそなごまかしだ。そんなおざなりなあしらいが通用すると思っているなら傲慢だ。軽んじられているようで、なんだか腹が立ってきた。
そうだ、先輩がそういう態度なら、こっちの言いたいことは言っておかないと。このまま帰ったんじゃ据わりが悪い。
「酔ってたから嵐山先輩にあんなこと言ったんですか?」
「……」
「嵐山先輩が誤解するようなこと……さすがに約束が違いますよ!」
「約束なんてしたっけ」
あっさりカウンターを食らってしまい、ぎくっと身体が硬直する。彼の口から聞いたこともない冷ややかな声音が発せられたことに、喉を塞がれた気がした。気付けば、わたしを見つめる眼差しまで暗く沈んでいるように見えた。
約束、は、していない。夏休み前に協力を持ちかけられて、具体的な案がないというので、わたしもお願いすることはしなかった。今だってべつに、協力してほしいとは思っていない。なのに勝手に先輩が協力している体で諌めてしまった。今のはわたしが悪い。悪いけど、迅先輩の言動がまったく悪くないとは、どうしても、認め難かった。ぐっと唇を噛みしめる。
「でも、わたしが嵐山先輩をすきだって知ってるのに、わざわざあんなことを言わなくても……」
「……」
迅先輩は何の反応も示さなかった。ただ、冷たい眼差しで、わたしを見下ろしているだけだった。
迅先輩を責める言葉を探したら、「無神経」に行き当たった。でも、わたしの片想いを阻む迅先輩と、仲良くなりたいという迅先輩を邪険にするわたし。本当のところ、無神経なのはどちらだろう。はっきりさせたところでどうしたら丸く収まるのかもわからない。だってべつに、迅先輩に告白されたわけじゃないもの。……わたしが薄情なのか…?
「ほら警戒されてる。下手だな」
その声は、確かに離れた場所から発せられたはずなのに、耳元で囁くような距離で届いた。おかしな感覚に思わず右へ振り返る。迅先輩も同じ方向を向いたのを視界の端で捉える。
もちろんそばには誰もおらず、チェーン店のラーメン屋と、その左隣にカフェが構えるのみだった。横目で迅先輩を見ると、彼はカフェの二階あたりを見上げているようだった。
カフェは通りの終わりに位置しており、脇には細い道路が走っている。時間帯に関わらず見晴らしが悪いので、角にカーブミラーが立っている。そう、迅先輩の視線の先は、カーブミラーのようにも見えた。
というか、さっきの声。迅先輩が言ったのだと思ったけれど、聞き間違いだろうか。
「じ――」
声を発した途端、先輩は勢いよくわたしに振り返ったと思ったら、空いていた距離を大股で詰めると右手首をひっ掴んだ。突然のことに心臓が反応してしまい、反応したことに奥歯を噛みしめる。「早く行こう」迅先輩は有無を言わせる隙もなく手を引き駅への道のりを歩き始める。早足で通りを進んでいく、迅先輩の切羽詰まったような背中に、事態を飲み込めないもののされるがままついていく。彼の手がひんやりと冷たい。まるで何かに怯えているようだ。逸る心臓に動揺しながらも、振り払うことはできなかった。
五分とかからず駅構内に到着し、ようやく彼は足を止めた。人の行き交いは通りといい勝負で、煌々と明るい照明のおかげで、外にいたときよりは平静を取り戻せていた。
迅先輩は周囲を見渡す動作をしたのち、わたしの手を離した。振り向いた彼の額は汗ばんでおり、同時に顔色もひどく悪いように見えた。暗いところから明るい場所に来たせいで目が錯覚を起こしているのだろうか。一体なんなんだ。
「急にごめんね。ちょっと時間がないから、ここで…」
「あ、はい。……あの、最後にひとついいですか」
「うん?」どう見ても顔色を悪くさせたまま、至って通常通りを装って笑みを浮かべる迅先輩。笑顔はびっくりするほどぎこちない。そんな弱っている相手に対してここぞとばかりに聞きたいことを聞く、きっとわたしも卑怯な人間なんだろう。
でも今は卑怯でもなんでもいい。はっきりさせておきたい。今なら何かしらの答えが、本当の答えがもらえるんじゃないかと思って。目の前の彼と対峙する。カバンを肩にかけ直してから、まっすぐ見上げる。
「先輩。わたしにこういうことするの、深い意味はないんですよね」
迅先輩が目を見開いたのを認識した瞬間、どこからかハウリング音が響いてきた。脳を支配するほどの大きな音に驚いて耳を塞ごうとする、前に、視界が白み、意識が遠のいていく。頭の奥で、何かが割れる音がした。
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