06


 アイスウーロン茶を呷り、掘り炬燵のテーブルにコンと置く。はあ、と気疲れ故の溜め息をついたけれど、周囲のどんちゃん騒ぎに掻き消されて誰にも聞こえなかっただろう。隣の歌歩ちゃんでさえ漬物のキュウリに夢中だ。
 歌歩ちゃんはご飯を食べる姿も可愛いので、同級生から先輩まで男女問わずにおつまみを献上される。しかし残念なことに、彼女はここに来る前に好物のとんこつラーメンを食べてきているので、手をつけられないでいるお皿がずらりと並んでしまうのだ。かくいうわたしも腹ごしらえは済んでいるため消費に助力することはできない。歌歩ちゃん、学部の飲み会ではご飯に困らないんだから、前もって食べなくてもいい気がするのだけど。毎度わたしに付き合わせるのは申し訳ないと思っているよ。でもきっと、来月の飲み会前にも誘ってしまうだろう。
 ついさっきまで向かいの座布団に座っていた男の先輩方の顔を思い出す。初めてしゃべる人たちだった。歌歩ちゃんはコミュニケーション能力が高いので誰とでも上手に接せて偉い。わたしは口角だけ上げて、頷いたり笑ったりするだけで、これが自分の役目なのだと思い込まないとやってられない。間違いじゃないけれど、いざというとき歌歩ちゃんを助けられる気がしなくて情けない。
 手持ち無沙汰になったので近くにあるお刺身を食べようと醤油を手に取る。ゆっくりと小皿に垂らし、箸を伸ばす。口に入れたマグロは温くなってしまっていたけれど、わたしの舌には十分おいしく感じられた。


「迅、こっちこっちー」


 咀嚼が一度止まる。すぐに、再開させる。廊下から大広間の座敷へ戻ってきた彼は、おー、と間延びした返事をし、わたしたちとは離れたテーブルに着座したようだった。
 夏休み明け一発目の学部飲みでは話題が尽きないらしく、どこもかしこも七月の二倍は賑やかだ。前回は試験前で人数が控えめだったのもあり、この大盛り上がりが久しぶりに思える。飲み会が始まって一時間が経った今では絶え間なく席移動が行われていて、今わたしたちの前は二つとも空席だった。テーブルの端っこに追いやられわたし以外箸をつける人がいないであろうお刺身が哀れに思え、できる限り食べてあげようと決心する。


「ここ、いいか?」


 前の席の座布団の向こうに足が見え、反射的に顔を上げる。ぎょっと目を剥く。――嵐山先輩。


「どっ…どうぞ……?!」


 咄嗟に伸ばしかけた箸を引っ込め居住まいを正す。声ひっくり返った。カーッと首が熱くなり、顔を上げられなくなる。嵐山先輩はお礼を言うと、持っていたグラスを座卓に置きながらわたしの向かいの座布団に腰を下ろした。目を疑ってしまうのも無理ないだろう。嵐山先輩、嵐山先輩が、わたしたちの席に来てくれるなんて、初めてだ。それも友達の付き添いとかじゃなくて、一人で!人気者の嵐山先輩はいつも引っ張りだこだから、これはまさしく奇跡だ。もしかしたら単なる気まぐれなのかもしれない。


、この間は……もう先月になるのか。ありがとう。アイスうまかったよ」
「あっ、いえ、とんでもないです…!」
「また行かせてもらうよ」
「はい、ぜひ……」


 一瞬見て、すぐに俯く。平静なんてとても保てず、目をあちこちへ泳がせる。髪をしきりに直して間を持たせようとするも意味はない。嵐山先輩のグラスに浮かんだレモンの輪切りを見て、レモンサワーを飲んでるんだ、なんてことを胸に刻む。話題にはできない。「迅先輩と来たってちゃんから聞きましたよ。お二人、仲がいいんですね」そしてフォローの神様こと歌歩ちゃんが本当の間持たせをしてくれる。ありがとうを百回くらい念じる、前に、嵐山先輩が「ああ」と肯定した。おそるおそる目をやる。


「あの日は偶然会ったんだ。そうしたら迅が、アイスでも食べないかって。まさか行き先が後輩の店だとは思わなかったよ」
「そうだったんですね」


 応えたのは歌歩ちゃんだけだった。わたしは、ぽかんと口を開けたまま、放心していたかもしれない。……そうだったんだ。あの人、たまたま会った嵐山先輩を連れてきたのか。わたしの機嫌を取るのにちょうどよかったからこれ幸いと。じゃあもし嵐山先輩に会ってなかったらどうしていたんだろう。……いや、仲良いんだから普通に約束して会う日もあるだろう。そのとき連れてきていたに違いない。偶然だろうが必然だろうが関係なく、迅先輩はずるいし、出しに使われた嵐山先輩には申し訳ない。ついつい眉尻が下がってしまう。肩をすくめ、皿が乱雑に並んだテーブルに目を落とす。
 迅先輩、仲良くなりたいなんて言ったからにはさぞマメに連絡が来るかと思いきや、メッセージを介してのやりとりは最初の一度きりで、以降何もなかった。肩透かしを食らった気持ちはあるものの、彼はときどきバイト先に顔を覗かせに来たので、忘れる隙は悔しいことにほとんどなかった。毎度サプライズ的な登場をし、注文の前後で少し話してお別れするだけ。来るなら事前に言ってくれたらいいのにと思うたび、言われたところで何をするでもないじゃないかと我に返って、考えた自分を恥じる。そんな風に悶々としたまま、大学生初めての夏休みは幕を下ろした。


も迅と仲がいいんだろう?」


「えっ……あ、」嵐山先輩の問いかけに咄嗟に顔を上げ、案の定言葉に詰まる。……仲。迅先輩と。


「あいつはいい奴だから、よろしく頼むよ」


 友達想いの嵐山先輩の笑顔は相変わらずとてつもなくかっこよかった。他にも何か言いたげな様子すらかっこいい。何を言いたいんだろう、と推測していたら、自分が何を言おうとしていたのか忘れてしまった。真っ白になった頭で、慌てて言葉を探す。


「じ、迅先輩も、嵐山先輩のことをいい人だって言ってましたよ……」


 わたしと迅先輩は仲良くないですよ、誤解しないでくださいって、本当は否定したほうがよかったのかもしれない。でも言えなかったのは、嵐山先輩に、文脈はどうであれ否定的な言葉を向けたくなかったからなんだろう。淡い罪悪感を覚えながらも、出てきた台詞はこれだった。


「本当か?それは嬉しいな」


 嵐山先輩はそう言って、ゆっくりと目を細め、はにかむ。かっこいい。素敵。嵐山先輩はわたしのコンディションに関わらずいつも素敵だった。きっとこの人がわたしの言動なんかに左右されることはないのだろう。わたしも、左右させたいだなんて畏れ多いことは思わない。「憧れの先輩」を体現する彼が自分を認知していること自体、なんだか得難い状況に感じてしまうほどだ。息を吸い込み、胸がいっぱいになる。


「駄目だよ、嵐山。ちゃんに構うのは俺の特権なんだから」


 背後で聞こえた声に、一瞬時が止まる。反射的に振り返っていた。視界に黒いズボンと足元が映る。そのまま、顔を上げる。
 真後ろに、迅先輩が立っていた。隣の歌歩ちゃんも目を丸くして見上げているのがわかる。向かいに座る嵐山先輩がどんな顔をしているのかは、わからない。
 迅先輩が、電球色の照明の下、嵐山先輩に向けてうっすら笑っているのが見える。「迅?」疑問形で名前を呼ぶ嵐山先輩に応えることなく、彼は真下のわたしへ、ゆっくりと俯いた。
 目が合った瞬間、底冷えするような悪寒に襲われた。感じ取ったのは危機感だ。けれど、動けない。拘束されているわけでも責められているわけでもない。迅先輩は、ただただ空虚な眼差しで、わたしを見下ろしている。少なくとも一介の後輩とか、ましてや仲良くなりたい相手に対する眼差しではない。思いもよらない表情に、彼の吐いた台詞へのリアクションを忘れてしまう。
 永遠にも思えた時間は瞬き程度の長さでしかなかったのだろう。迅先輩が再度顔を上げる。そのときにはもう、いつもの上手な笑顔を作っていた。


「嵐山、悪いけど俺の分立て替えといてくれない?」
「構わないが……帰るのか?」
「ああ。ちょっと用ができてさ」


 今気付いたけれど、迅先輩の肩にはバッグが掛けられており、言ったとおり退席の支度は整っているようだった。本当に帰るんだ。思ったのも束の間、彼の手がわたしの肩に乗る。再度目線を向ける。


ちゃん、途中までおしゃべりしていかない?」
「えっ?」


「一緒に帰ろうよ」触れた箇所から広がるように、背筋が粟立つ。見上げた先の眼差しと交差した瞬間、後ろ髪どころか心臓ごと引っ張られるような痛みを錯覚した。そのくらい、迅先輩のお誘いには心をさらう威力があった。この数秒、わたしは、隣の歌歩ちゃんや、向かいの嵐山先輩のことが頭から吹っ飛んで、目の前の請うように見つめる迅先輩のことで頭がいっぱいになる。即答しそうになる声を飲み込み、精一杯口をつぐんで凝視する。
 わたしが答えを出す前に、迅先輩は屈めていた背筋を伸ばした。視界が広がる。


「なんてね。じゃ」


 そう言って、あっさり踵を返した迅先輩。呆気に取られ、あいさつもできないまま、彼の背中を見送るしかなかった。宴会場の外へと姿を消してようやく、息をつく。
 ……なんだったんだ、今の。いや今のだけじゃなくて、迅先輩の言動が意味不明すぎる。帰ろうって、帰る理由がないに決まってるじゃない。


「……よかったのか?」


 迅先輩が座敷をあとにするなり、嵐山先輩が至極純粋に問う。わたしは、顔を向け、下手くそな愛想笑いを浮かべる。
 それから一瞬、泣きたい衝動に駆られてしまった。ぐっと顎を引く。


「…なんか、迅先輩変だったので、様子見てきます」


「歌歩ちゃんごめんね」彼女の顔もほとんど見ないまま、カバンにスマホを突っ込んで立ち上がる。気にしないで、大丈夫よ。歌歩ちゃんの優しい声が背中を押しているように聞こえたのは、きっと間違いじゃないんだろう。

 座敷を出、店の玄関口で靴を履きながら、脳みそが茹だるような錯覚を覚えていた。もしかしてわたし今、まんまと騙されてるのかな。でも、これ以外の正解が何なのか、考えつかない。
 だってわたしを見下ろす迅先輩の顔を思い出したら、心臓が痛くて、目の奥がヒリヒリと熱くなってしまった。まるで一途な子供が、捨て置かれたような哀の色を見せていて、彼の手を取ってあげなければ一生後悔するに違いない、と確信してしまったんだもの。




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