歌歩ちゃんや嵐山先輩のおかげで中間試験の解答には総じて手応えがあったものの、論述の真の正解はわからずじまいなのであまりいい気にならないよう、試験後の友達とは「自信ないなあ」と言い合う学生仕草に興じていた。実際、一番できたと思えたのが過去問を借りた科目なので、それに比べたら全部どんぐりの背比べだ。歌歩ちゃんとの答え合せでもすでにいくつか間違いが発覚しているし、実際のところ、期待したほどの結果は出てこないんだろう。
でももしかしたらいい成績がつくかも、とちょっと浮かれてしまう気持ちを現実に縫い留めるように、夏休みはもっぱらアイス屋のアルバイトに勤しんでいた。ただし、今日は歌歩ちゃんと一週間ぶりに会う日である。開講期間は毎日顔を合わせていた彼女と、久しぶりに会えるのでとても楽しみにしていた。
とても楽しみにしていたにも関わらず、今わたしの表情が晴れないのは、目の前の歌歩ちゃんのせいなどでは決してなく、自ら切り出した話題のせいである。
「へえ、迅先輩がそんなことを……」
真四角のテーブルの向かいに座る歌歩ちゃんの猫目が見開かれる。彼女の手元にあるアイスカフェラテの氷が溶けてバランスを崩し、表面が揺れた。それへと目を落とし、何とも言えない顔のまま、うん、まあ、と煮え切らない反応をしてしまう。
大学とは向こう二ヶ月おさらばするはずが、わたしたちが集まったのはそこから数分歩いたところにある喫茶店だった。バイト先であるアイス屋の斜向かいの店で、大学からは徒歩圏内というのもあり普段は学生で賑わうものの、さすがに夏休みとなると高校生から社会人まで幅広い年齢層のお客さんの姿が見とめられた。現在は二階の奥まったテーブル席を陣取っているため視界は狭いけれど、二人の声さえ聞こえればいいので居心地はむしろいい。歌歩ちゃんとは家の方向が真逆なので、おしゃべり目的での逢瀬となるとこの辺りでの集合解散が一番都合いいのだ。
当てもなく歌歩ちゃんの背後に広がる店内へ目を向ける。見知った顔は見当たらない。夏休みに入ったらバイト先にも知り合いがぱったり来なくなったし、そういうものなのかもしれない。
「なんだか、意外な方面からアプローチが来たのね」
一瞬どこかに飛んでいた意識を戻す。そうだ、迅先輩の話だ。
「アプローチ……っていうのかな…?」
とてもじゃないけれどそうは思えない。居た堪れず首をすぼめるも、彼女は行儀のいい姿勢のまま、ちょっと楽しそうに「きっとそうだよ」と頷いてみせた。
「えー……いや、そんなわけないよ。だってあの人、わたしが嵐山先輩のことすきだって知ってるもん」
「ああ、そっか」
「わたしじゃなくて、歌歩ちゃんとお近づきになりたいとかのが全然ありえるよ」
「そのほうがないって」
あは、と肩をすくめて笑う。歌歩ちゃんは今日、大学に通っているときより女の子らしくて華やかな格好をしている。講義を受けているときの服も似合っていて可愛かったけれど、今日と比べるとだいぶ落ち着いた色やシルエットの服を選んでいたんだとわかる。お昼に会ったときにそれを伝えたら、「お出かけの準備の時間があったからだよ」と気恥ずかしそうに答えていてとっても可愛いかった。わたし、自分に自信があって歌歩ちゃんが恋愛対象だったら、絶対すきになってるし、夏休み前に告白してるよ。
やっぱり迅先輩は歌歩ちゃん目当てなんじゃないかな。そうでもなしにわたしをピンポイントで狙い撃ちする気が知れない。でも、それならそうと言ってくれないと、ちゃんと仲介してあげられない。わたしはあなたみたいに察しが良くないんだよ。教えてもらえないと、望むことをしてあげられない。先走って見当違いなことをしたら嫌だし。
「でも、本当に意味深だね」歌歩ちゃんはカフェラテを一口飲んだあと肩を落として、神妙そうに目を伏せた。彼女なりに迅先輩の意図を考えているのだろうことが伝わって、なんだか申し訳ない。恐縮してしまう。わかるよ、だってこの間の迅先輩、ふつうに謎だったものね。
「仲良くなれるって、誰に言われたんだろう」
「……ね」
「何か知ってるのかな?」
「な、何かって?」
うーん、と顎に手を当て考え込む歌歩ちゃん。さながら名探偵のようで、今まさに目の前で、女子大学生探偵のドラマが始まっている、という妄想をする。歌歩ちゃんが華麗に事件を解決していく。犯人はあなたです、と指差す光景。本当に事件の一つでも起きたらいいのだけれど、残念ながら彼女の明晰な頭脳を悩ませるのは現状、友人の小さな相談事しかない。
「あ、ちょっとトイレ行ってくるね」
ともあれ、会話が途切れたのを見計らって席を立つ。二階は男女それぞれ一つずつの個室が、わたしたちの席から見える場所にある。歌歩ちゃんに送り出されながらいくつかのテーブルを横切りドアの前まで来ると、両方の個室が使用中であることがわかった。戻ってもよかったけれど、開くまで待ったほうが面倒じゃないだろうと思い、ドアの向かいの壁に寄りかかる。
「――…」
ふと、聞こえた声に顔を上げる。テーブル席に座るお客さんたちの雑談に紛れるように、目の前の個室から男の人の声が漏れ聞こえていた。男の人だから、向かって左側の個室に入っている人だろう。電話でもしているんだろうか。
「――なら警戒心を早く解かないと。じゃないといつまでもこのままだぞ」
「わかってる」
「おまえだって俺がいるのは嫌なんだろう」
「……ああ、いやだよ。ものすごく」
ドア越しのため言葉としては何一つ聞き取れないけれど、なんだか、同じ声が延々としゃべっているように聞こえる。応酬をしているようにも聞こえるけれど、まさか個室に二人入っているわけがない。ここのトイレはドアを開けたら仕切りなどなく、一つの空間になっていたはずだ。
それに、この声、聞き覚えがあるような。記憶を巡らせているうちに女子トイレのドアが開いたため、出てきた社会人らしき女の人と入れ替わるように個室のドアに手をかけた。
床より一段上がる個室へ踏み入れる瞬間、隣の個室が開いた。単なる興味本位で、さりげなく横目で盗み見る。
こちらのドアが閉まる間際、見えた横顔は、迅先輩のものだった。
「――」
パタンとドアが閉じる。一瞬、放心する。すぐに我に返り、ドアの鍵を閉めることで先ほどの動揺を誤魔化そうとする。
しかし鍵から手を離すなり、また硬直してしまう。……迅先輩だった。お店にいたんだ。どうしよう、わたしたちの話、聞かれたかも。どの辺りに座ってたんだろう。
すぐに出て確認したかったけれど、あまりに不審な行動に取られそうでやめにした。落ち着かない心持ちのまま、今いる個室に目をやる。入ってすぐ右手に鏡つきの手洗い場、部屋の奥にドアと向き合うように便座が設置されている。手洗い場の脇にハンドドライヤー、便座の隣の棚にはトイレットペーパーの予備と芳香剤がある。ただただ、よくあるお手洗いの個室だった。
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