02


 歌歩ちゃんとの待ち合わせは食堂にした。多くの学生を抱える大学なだけあって広さはなかなかのもので、校舎とは別の二階建ての建物がキャンパスの東奥にどっしりと構えている。厳密には別の用途に使える大教室も併設されているのだけれど、使ったことがなければ探検したこともないのでよく知らない。

 一人で受けた試験を終え向かったそこは、こんな時期にもかかわらず絶好調の賑わいだった。予想以上の混雑ぶりに慄きながらも探した二人席は一階では見つからず、ならばと滅多に使わない二階へ移動するとちょうど目の前の四人掛けテーブルが空いたためすかさず滑り込んだ。ひんしゅくを買うかなと周りの目にビビりつつ、購入済みのカフェラテを置きそれとなく居住まいを正す。手早く歌歩ちゃんにメッセージを送り、パタンとテーブルに伏せる。はあ、よかった。


「やあちゃん。試験終わり?」


 聞こえた声にギョッと背筋を伸ばす。気付くと、前方から迅先輩が歩いてきていた。肩にバッグ、片手にドリンクのカップを装備しているあたりわたしと同じく時間潰しが目的のようだ。「こんにちは…」咄嗟に、彼から目線を逸らし近くの座席へと巡らせる。フロアの奥に広がる飲食スペースは一階と同じく所狭しとテーブル席やカウンター席があり、学生の姿も多く見えた。でも、見知った顔はない。ということは、この人は一人で、一人のわたしに話しかけてきたということになる。親しくもない後輩に対しての所業とはにわかに信じがたい。


「一人?ここ空いてる?」
「あ、はい」


 頷くなり、迅先輩は向かいのイスを引き出して座った。その動作に無意識に顎を引く。座席は正方形のテーブルを四つのイスが囲う配置になっている。だから一番距離は離れるけれど、真正面から対峙するには彼との心の距離はまだまだ遠いはずだ。
 いとも自然に着席したけど、なんでこの人、わたしのテーブルに来たんだろう。ちらっと脇のカウンター席に目をやると、簡単に空席を確認できた。パーソナルスペースの確保と言わんばかりにお一人様がイスを一つずつ空けて座っているからわたしの席探し候補には入らなかったけれど、迅先輩ならあっちでいいのでは。というか迅先輩の来た方向からして、どこかに座ってたのにわざわざわたしのところに来たのでは。考えすぎか。


「三上ちゃん待ち?」
「はい…」
「俺も人待ってるからさ、三上ちゃんが来るまで話し相手になってよ」
「あ、はい、大丈夫ですけど…」


 なんだ、話し相手が欲しかっただけか。一瞬自分目がけてきたのかと思ってしまった。そんな発想に眉をひそめ、口を一文字に結ぶ。……この人に関してはなぜか自意識過剰になってしまうな、まったく恥ずかしいことだ。
 迅先輩はポケットから取り出したスマホを数秒いじったあと、再度しまった。わざわざ話し相手を探していたということは、一人でいられないタイプなのかな、なんて歌歩ちゃんを待ってるわたしが言えることじゃないけれど。手持ち無沙汰になり、手元のカフェラテを必要以上にかき混ぜてしまう。迅先輩といえば、話し相手という割にペラペラしゃべってくるわけでもなく、じっとわたしを見ているようで居た堪れない。カフェラテに集中してるから見えないけど、視線を感じるのだ。


「過去問探してた試験どうだった?」
「えっ。あ、おかげさまで結構いけたかなと、思います」
「そっか、よかったね」


 顔を上げると、迅先輩はにこりと目を細めて笑った。
「過去問を探していた試験」というのは、試験期間前に同じ学部の嵐山先輩に過去問がないか聞いた科目のことだ。わたしのコミュニケーション能力の欠如が露呈し、歌歩ちゃんと散々反省会をした日のことはよく覚えている。自分があんなに人と話せないことに愕然とした出来事だった。
 素敵なことに嵐山先輩は、翌週の講義の際、わたしたちの席を通りがかると「こないだの、持ってきたよ」と言って渡してくださった。約束を覚えていてくれたことや迅速に果たしてくれたこと、わざわざ渡しにきてくれたことに感激して、自分がちゃんと人間の言葉でお礼を言えたかの記憶がない。隣の歌歩ちゃんが「ありがとうございます」と述べていたのは覚えているのだけれど。ちなみにそのときも、嵐山先輩の後ろについてきていた迅先輩に、「よかったねちゃん」と言われた。
 そう、だから、厳密にいうと迅先輩のおかげさまではない。その試験が上手くいったことに関する嵐山先輩へのお礼はすでに昨日彼が一人でいた際に歌歩ちゃんと一緒に伝えたし、迅先輩はまるで関係がないのだ。とはいえ、一度口にした謝辞を「やっぱり違う」と取り下げるのもおかしいので、釈然としないながらも彼のわざとらしい笑顔に愛想笑いするほかなかった。


「…迅先輩も今日の試験は終わったんですか?」
「終わったよ。今日から夏休み」
「え、いいですね。やっぱり三年生にもなると試験も少ないんですね」
「そういう講義の選び方をしてるだけだよ。俺試験得意じゃないからさ」


 イスの背もたれに寄りかかり、依然笑みを絶やさない迅先輩。一年生の自分にはまだイメージが湧かないけれど、三年生の必要単位数はそれなりに少なくなる、というのは聞いたことがある。もちろん一、二年生に取れるだけ取った上での話ではあるものの、確かに単位認定の条件が試験ではなくレポートや出席点のみの場合、試験期間の負担はだいぶ軽減されるだろう。
 迅先輩はそのパターンなのか。試験は得意じゃないと言うから、頭があんまりよくないんだろうか。かといって馬鹿にも見えないけれど。……だめだこの人に興味がなさすぎて何のイメージもない。
 そうなんですかと適当に返したタイミングで、テーブルの上のスマホが振動した。手に取り画面を見てみると、歌歩ちゃんからのメッセージが届いていた。同じくして迅先輩もポケットからスマホを取り出したのを視界の端で捉え、彼も待ち人だろうかと考える。


「迅先輩、誰を待ってるんですか?」
「嵐山だよ」


「! へえ…」思わず反応してしまい一瞬で背筋が冷える。ああバカ、油断した…!迅先輩の友人といえば真っ先に挙がるだろう人物だ、予測できたろうに!咄嗟に取り繕って平静を装ってみたけれどあまりにも杜撰だった。その証拠に、迅先輩はスマホから目を離し、パッとわたしに向いた。丸くなった目を、それからゆるりと細める。


「わかりやすいねちゃん」
「えっ、あの」
「気持ちはわかるよー。嵐山はいいヤツだからな」
「……いや、」


 迅先輩は妙に実感のこもった声で言うと、一人でうんうんと頷いた。……実感がこもっていると思うのに、わざとらしいとも感じてしまうのはどうしてか。本音と建前が違う、というのとはまた違ったわざとらしさだ。思えばこの人、最初から何もかもわざとらしい。


「嵐山のこと狙ってるんでしょ」


 弾かれたように顔を上げる。目の前の男の人は、なんてことない、今まで見てきたその人と変わらず同じ、じっとわたしを値踏みするような、見透かそうとしているような、そういう眼差しを向けていた。自分の頬が強張るのを感じる。すきな人がバレたという羞恥より先に背筋が凍る。迅先輩の目が何と言っているのか、わからなかった。


「そ……」


 なんて返すのが正解だ。果たして認めていいのか。否定するべきか。所詮この人は嵐山先輩じゃない。何か言ったところで無関係だ。でも、友人ではあるから、下手なことを言って嵐山先輩に伝わってしまうのは困る。
 わたしが答えあぐねていると、迅先輩はふっと目を逸らした。斜め下を見下ろし、何もないテーブルを視界に映す。相変わらず口角は少しばかり上がっている、不思議な表情をしていると思わせた。彼は今、どんな感情になっているんだろう。そう、このとき初めて目の前の男の人に関心を持ったのだった。


「協力しようか?」


「……え?」突拍子もない、彼の口から紡がれた提案に目を剥く。口もポカンと開いている。わたしがこの上なく呆気にとられている真向かいで、迅先輩は変わらず目を逸らしたままだ。突飛なことを言い出しておいて、なんなんだ。何がしたいんだこの人?


「いや、大丈夫です」


 返答に、迅先輩は少し表情を硬くしたようだった。こう返す以外何と言われると思ったんだろう。じゃあお願いしますとでも言うと思ってたんだろうか。
 というか、もしかして、迅先輩に今まで意味深に見つめられたり声をかけられてたのって、これを言うためだったのか。だって明らかにいつもと態度が違うもの。深刻に捉えすぎかもしれないけれど、飄々とした迅先輩らしかぬぎこちなさに、ただならぬ違和感を覚えてしまう。
 しかし次の瞬間には、先輩は目を細めて笑顔を作っていた。


「いやあ、そっか。大丈夫かあ」


 あっはっはと頭を掻くそれは、よく友人といるときに見せる、迅先輩の笑顔だった。ガラッと変わった彼の雰囲気に思わず息を飲んでしまう。とっさに俯き、返すべき言葉を探す。


「……だって、……じゃあ、仮に協力の約束をしたとして、何をしてくれるんですか」


 口にしてからしまったと思うもあとには引けない。嵐山先輩のことがすきだと認めたも同然の発言だ。どうせ迅先輩も確信しているみたいだったから、否定したところで同じだったろうけれど。
 一方で先輩の返事はテンポ良くは返ってこなかった。むしろ不自然な沈黙さえ流れ、疑問に思い見上げる。


「さあ、なんだろう」
「ノープラン?!」
「あはは」


 ケラケラと笑う先輩に脱力してしまう。……なんていうか、掴み所がない人なんだな。今まで掠る程度にしか関わったことのなかった人のイメージが、この十数分で何回も更新されていく。「ごめんごめん」口先だけの謝罪、かと思いきや、伏せた目には哀愁に近い何かを感じ取ってしまう。本当にわからない、この人のことは。


「べつにいいんですけど…」
「ごめん、からかったわけじゃないよ。ただ俺、ちゃんとは仲良くなりたいってずっと思っててさ」


「な、なんでですか?」疑問は当然だろう。当然であるはずなのに、迅先輩はまるで的を射る気のない弓引きのように、明後日の方向へ答えを放った。


「俺とちゃんは仲良くなれるって言われたから」
「…誰にですか?」


「……誰だったかな」わたしの疑心をかわすように横へ流した視線は、ここにはいない誰かを思い浮かべているようだった。




modoru / tsugi