15


 真っ白になった視界が戻ると、久し振りの紫色の空の下にいた。太陽がなくとも明るい空間に、森に囲まれたお茶会の席がある。ピエロの人形と一緒に、独りぼっちでイスに座る彼は、テーブルの向かい側に立ち尽くすわたしと目を合わせるなり口角だけを上げて笑った。


「どうぞ?」


 気付くと、迅先輩の手のひらが指す方向、先輩の真正面の席に一人分のティーカップが置かれていた。ここに来てもてなされたのは初めて来たとき以来だ。逡巡したものの、いいか、と思い着席する。


「嫌なところを見せちゃってごめんね。悪いと思ってるよ」
「気付いてましたよね、わたしが後ろにいるって」
「いや。ついさっきだよ」


 迅先輩は相変わらずのらりくらりとかわすような物言いをしている。そんな様子をつぶさに観察しながらティーカップを持ち、口をつける。なんの紅茶だろう。味がよくわからない。


「そろそろ迅悠一に愛想尽きた?」
「あなたには言いません。迅先輩に直接言います」
「まだ俺が迅悠一じゃないって思ってるの?」
「……」


 明らかに馬鹿にしたような眼差しを向けられる。けれど、わたしが目を逸らさずにいると、迅先輩は何かを察したのか表情を消した。
 やっぱりわたしの予想は当たってるんじゃないかな。前回気付いた。あれ以来確かめようがなかったけれど、この仮定で彼を見ればいろいろなことが腑に落ちる。


「…なんでわたし、あなたと話せるんですか?他の人とも会ってるんですか?」
「今日は質問ばかりだね」
「いつもです。先輩がいつもはぐらかしているだけです」
「そんなことないだろう」


 迅先輩は楽しげに肩を震わせる。眉をひそめると先輩は軽く両手を上げ、降参のポーズをした。白旗もびっくりの白々しさだ。今日は様子が変だと思っていたけれど勘違いだったようだ。


「君は最初から特別だよ」


 一瞬、心臓が浮く感覚がした。悪い意味でだ。同時に、一人で勝手に傷つく。


「君は、俺を救ってくれるから」


 続いた言葉に顔を上げ、目をみはる。迅先輩は笑顔を作れていなかった。表情のないかんばせでわたしを見つめていた。
 この人は嘘しか言わない。この間気が付いたこと。だから、その言葉だって嘘だとわかっているのに、信じてしまいそうな自分がいる。傷つけられたあとの優しい言葉がこんなに心に響くものだと、生きてきて初めて知った。だってこの人はまごうことなく迅先輩なのだ。知ってしまってはもう無碍にすることはできない。


「迅先輩は、人を信じられないんですよね」
「……」
「言うべきことは迅先輩に直接言います。でも、」
ちゃん」


 遮るように名前を呼ばれる。「そろそろ時間だよ」時計も何もない世界でそんなことを言う。反抗しようと口を挟む隙もなく、迅先輩は立ち上がる。彼がここで能動的に動く様を見たのは初めてのように感じる。反対に、なぜかわたしは動くことができない。すぐ近くまで来た彼を凝視する。
 片方の手が頬に沿えられる。親指で、そっと、頬骨の位置を確かめるように撫でられる。


「また会おうね、ちゃん」
「じ――」


 やっと発することのできた声は言葉にならず、意識は暗転する。


◇◇


 目が覚めると、アイボリーの天井が視界いっぱいに広がっていた。眩しいほどの蛍光灯にほんの少しだけ目を細める。そして、自分が横になっていることに気付き、勢いよく起き上がる。ベッドに寝ていたのだ。自分の家のではない。薬品独特の匂いが鼻につき、ここが大学の医務室だと察する。一度も訪れたことはなかったけれど、事務室に向かう途中で前を通り過ぎたことがある。中はこんな風になっているんだ。
 興味関心は湧いたものの、すぐそばに座りベッドに顔を伏せている存在に気付けばそれも吹き飛んだ。迅先輩だ。先輩の顔はこちらからは見えず、しかし、寝ているのではないことは、不自然に力の入った背中や腕から察することができた。


「迅先輩」


 声だけかけると、先輩の身体が強張るのがわかる。ここに連れてきてくれたのは間違いなく彼だろう。わたしがあの世界に行っていた間どうなっていたのか、気になるところではあるけれど、それよりも彼の心のほうが心配だ。これまで、あっちにいた分の時間経過はなかったはずだ。それが今回だけ、あった。「そろそろ時間だよ」は、あながち嘘でもなかったんだろうか。
 でも、鏡の中の先輩は多分、嘘しかつけない。そのことにわたしが気付いたことを彼も気付いていた。さっきだって、あの先輩はずっと言葉を選んでいるように見えた。
 気付いていた、それを先輩は煩わしく思っていただろうに、またわたしをあの世界に招いたのはなぜか。「また会おうね」が嘘ならば。目の前の迅先輩と同じ姿の彼へ思いを馳せてしまう。


「……ごめん。ずっとちゃんを、騙してたんだ」
「騙す?」


 迅先輩が顔を伏せたまま小さく頷く。それから、ゆっくりと上体を起こす。目を伏せ、顔色は悪い。きっと触ったら冷えていることだろう。壊れてしまいそう。心配になるほどだった。


ちゃんがさっき見た俺……鏡に映っていたあいつが、俺が人を信じるには君の心が必要だって、だから君を……信じてもらえないだろうけど」
「そうなんですね」


 あの先輩の言葉が始まりだったのは初耳だ。でも確かに、迅先輩は知り合った当初から一貫してわたしに執心していた。他でもない自分自身にそう言われたのなら、たとえ不可思議であろうとも信じたくなるのかもしれない。他人を信じられず、信じられるのは自分だけだとしたらなおさら。春からの彼の言動を思い起こすと妙に納得してしまえた。
「あの、実はわたしも先輩に内緒にしていたことがあるんですよ」おそるおそるといった風に迅先輩がわたしを見る。こんな彼を見るのは久し振りのように感じる。


「鏡に映っていた先輩と、これまでも何度か会っていたんです。最初は夢か何かだと思ってたんですけど」
「! ……そうだったんだ。ごめんね、気味悪かったでしょ。怪我とかしなかった?」
「怪我?」
「こんな…急に気絶するなんて」
「気絶……あ、今まではしてなかったと思います」


 飲み会の日に追いかけたときも、と説明すると先輩は純粋に驚いているようだった。白昼夢を見ていたような、こっちの世界ではほんの一瞬の出来事。迅先輩は鏡越しに彼とやりとりができていたようだから、余計不思議に思うのかもしれない。
 わたしに致命的な被害がなかったからか、先輩は少し安堵したようだった。けれど表情は依然晴れず、まるで見えない誰かにずっと怒られているかのように目を伏せている。なんとかそれを払拭したくて、半分は誤解を解きたくて、思い切って身を乗り出して彼へと近づく。近いほうがきっとよく心に届くから。


「迅先輩。あの先輩は、嘘をつきながら先輩を守っているように感じました。きっと先輩のことが大事だったんでしょう」
「……あれは人を信じられない俺自身だから。そうだよ、俺は自分のことが一番大事なんだ」
「それは、むしろ普通のことですよ」


 先輩を救うことは、鏡の中の先輩を殺すことと同義だ。自分を殺す存在を、あの先輩はどうしてわざわざ本人に伝えたのか。
「言うべきことは先輩に直接言います。でも、あなたのことが嫌いなわけじゃないです」最後まで言えたらよかった。そうしたらあの先輩を少しでも報いることができただろうか。傲慢な考えだ。でも、嘘で先輩を守るあの人がどんな反応を見せるのか、最後でいいから知りたかった。
 真っ白な布団に目を落としていた迅先輩は、思考したのち、小さく口を開いた。それから、医務室の入り口の脇に掛かっている鏡へ目を向ける。しばらく見つめていたものの、彼の声がそこから聞こえてくることはなかった。哀愁のような切なさをたたえた眼差しが細められる。わたしも鏡のほうを見やるも、角度があるせいで自分はおろか迅先輩の顔も映らなかった。


「……駄目な先輩でごめんね」


 鏡からわたしへ視線を移し、眉を下げ自嘲気味に笑う先輩にかぶりを振る。


「先輩に言ったこと、嘘じゃないです。信じてもらえるまで待てますよ、わたし」


 ありがとう、と声が聞こえる。迅先輩の深いところから。




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