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 人混みから見つけた迅先輩は、わたしを見とめた瞬間、青ざめた。

 階段教室から廊下へと雪崩れ出ていく学生の波を、目を皿にして見つめる。一人一人の顔を、取りこぼしのないようにチェックする。実際のところ、ここまでしなくても自分の目は勝手に目的の人物を捉えるんじゃないかとも思うのだけれど、もし万が一見つけることができなかったときが恐ろしいため万全を期するのだ。
 自分自身のことすら半信半疑なのだから、何事においても、完全に信じきることは難しい、と身に沁みる。人間ってそういうものだとも思う。だからこそ毎回、ちゃんと先輩を見つけられると嬉しくなってしまう。


「迅先輩!」


 入口から出てきた彼へ駆け寄る。彼はわたしを見とめるなり、強張った顔でビクッと肩を跳ねさせた。安堵とは言い難い、困惑とすら読み取れる硬い笑みを浮かべた先輩に応えるように隣に並び、階段への流れに沿うように歩く。
 お互いが三限終わりの今日は近くの喫茶店でお茶をする約束だ。待ち合わせは現地としていたけれど、講義が早く終わったわたしはすぐさま歌歩ちゃんに別れを告げ、迅先輩の教室へと向かった。『先輩の教室の前で待ってますね!』安心させるつもりで送ったメッセージに既読はついていたけれど、意図は伝わらなかったのかもしれない。いいやでも、迅先輩は約束するときいつもこうだからな。不安にさせたくなくて送っているけれど、余計プレッシャーになっているのかもしれない。合流したときの迅先輩は決まって申し訳なさそうだ。


「ごめんね、いつも迎えにきてもらって」
「いいえ!わたしがすきで来ているので」


 迅先輩が困り顔で笑う。迷惑と感じているそれではない。だから前向きに、へへ、と笑い返す。
 医務室で秘密を打ち明けたあとも、わたしと先輩の関係は特段変わらなかった。キャンパスで会ったら話すし、時間があればお茶したり一緒に帰ったり、気まぐれにバイト先に顔を出してくれるのも変わらず。ただ、何をするにせよ、積極的に約束をするようになった。先輩は約束を取り付けるたび決心したように頷き、わたしも胸に刻む。先輩が早く人を信じられますように。先輩が安心して約束をできるようになるまで、何が何でも約束を違えないようにと胸に刻むのだ。だって絶対ってなかなかない。
 迅先輩はまだ約束が怖いようで、約束通りに来てくれたことは一度もない。ハードルが高いんだな、と理解してからは可能な限り迎えに行くようにしている。先輩はたいていキャンパス内に留まっているので、合流することは簡単だった。ただ、決まって申し訳なさそうに謝られるのだけれど。もちろんこちらとしては承知の上で約束も迎えもやっているので、謝ってほしいなんて一ミリも思っていない。でも約束を守れないことは、人を信じられないことは、彼にとって相当な罪悪感なのだろう。
 きっと、わたしがすきだと言ってもまだ信じてもらえない。ずっと待つつもりだし、早まる気もないけれど、もしもわたしの存在が迅先輩を困らせているなら、いっそ構わないほうがいいのかもしれない。と後ろ向きな思考をしてしまうこともあるけれど、でも、わたしが、わたしこそが、この人に何かできると、思いたくなってしまう……のは、自意識過剰だし、独占したい気持ちの現れなんだろう。


「毎回情けなくてごめんね」
「情けないなんて思わないですよ。それにわたしとしては、約束してくれるだけでも嬉しいです」
「…そりゃあねえ」


 進行方向を向いて、すぐに横目で迅先輩を見上げる。何か言いたげな横顔だ。しかし言葉が続くことはなく、内心まで読み取ることのできないわたしは、結局何も言わず前を向き直してしまう。もうすぐ第二校舎の出入り口だ。出て行く学生が多いこの時間、自動ドアは頻繁な開閉で忙しそうだ。


「ん?」


 疑問の声を上げたのはわたしではなかった。隣の迅先輩でもない。自動ドアを通り校舎内に入ってきてわたしたちと目を合わせた、嵐山先輩、彼のものだった。
 ほとんど同時にわたしたちが立ち止まると、彼は普段通りの爽やかな笑みを浮かべた。それにわたしが慌てて会釈をする一方、迅先輩は目立ったリアクションをすることなく、嵐山先輩がスタスタとこちらに歩み寄ってくるのを待っているようだった。


「二人、もう帰りか?」
「そう。四限休講で」
「そうか。教授、先週からずっと体調を崩しているらしいな」
「ああ。早く良くなるといいんだけど」
「そうだな」


 嵐山先輩は頷くと、今度はわたしへと向いた。浮かべる笑みは相変わらずで、きっとこの人はいつでもどこでも嵐山准という人間でいられるのだろう。少なくともわたしの目にはそう映る。そして、この人のそういうところに、わたしは間違いなく憧れていた。
 もちろん尊敬の念が消えたわけではなく、迅先輩と親しくなってからより近しくなった彼には一層その念が強くなり感嘆のため息が漏れてしまう。本当に模範的な出来た人間なのだ。慣れてこそきたものの、恐縮してしまう気持ちはまだ拭えない。
 そんな彼がわたしを見て、それから、何かを理解したようにふっと微笑んだ。どことなく喜ばしそうに見えるのは、わたしの勘違いだろうか。


「引き留めて悪い。それじゃ」
「あ、いえ…嵐山先輩も講義頑張ってください」
「ありがとう」


「じゃ」と迅先輩にも軽く片手を挙げ、横を通り抜けて行く嵐山先輩。おお、と短く返した迅先輩は目と顔だけで彼を見送ると、肩の力を抜いたようだった。


「俺たちも行こっか」
「はい」


 迅先輩を見上げたまま頷く。校舎を出、キャンパスの敷地を抜け、喫茶店への道を行く。これから向かうのはわたしのバイト先の斜向かいにあるお店だ。そういえば最初に約束をしたのもあのお店だ。あのときは訳もわからずすっぽかされて腹が立ったっけなあ。今年のことなのにもう懐かしい。今ならわかるけれど、そもそも他人と約束をすること自体、迅先輩にとっては相当な負荷がかかるんだろう。それでもあの日約束を取り付けたのは、何が何でもわたしに助けを求めていた、から。


「迅先輩、嵐山先輩とは約束したりしないんですか?」
「しないよ。けどあいつ察しいいからなあ。俺を不審に思ってるだろうね」
「不審……というより、心配してるんだと思いますよ」
「……はは」


 乾いた笑いを漏らす迅先輩。バツの悪そうな横顔から、嵐山先輩のことも信用できないのだとわかる。あの嵐山先輩ですらそうなのだ、そんじょそこらの人間では先輩の信用は得られないのだろう。わたしだって、鏡の中の迅先輩に名指しされたからといって無条件に信用してもらえるなんてあぐらをかくつもりはない。


「ごめん。ちゃんにはあんまり嬉しくないことを言った」
「え?」
ちゃんは嵐山のこと…」
「もうそういうのじゃないですよ?!」


「……」迅先輩は応えず、目を伏せる。向かいの通りへ渡るため、横断歩道の信号でどちらともなく立ち止まる。ふと、迅先輩が何かに気付いたようで、後ろを振り向いた。見れば、カーブミラーが佇んでいて、わたしたちを斜め上から見下ろしていた。


「……まだあいつは消えてないんだ」
「…はい」
「……はは。かっこ悪いところばっか見せてるね、俺」


 迅先輩へ視線を戻すと、彼もわたしを見つめていた。はっと、眉を下げて微笑む。フォローの言葉を伝えようと口を開く、それを制すように、彼は「ありがとう」と続けた。


「俺もちゃんに会いたいから。これからも、仲良くしてほしいな」


 迅先輩はそう言ってから、硬直し、顔色を悪くした。目を逸らし、口を手で覆う。何かを堪えるように眉をひそめる。額には汗が滲んでいる。無理をしているとわかる、わたしにはそれが、今の彼の精一杯の誠意に感じられて、無性に胸がいっぱいになってしまう。熱が頬まで到達するのを感じながら、堪えきれず、一度両の手を握りこむ。それから、右手の小指を立て、先輩の目の前に差し出してみせた。


「わたしも、約束です」


 おそるおそるこちらを向いた迅先輩は、意味に気付くと目を瞠った。咄嗟に一度目を逸らし、また、戸惑う表情のまま、わたしを見つめる。
 大丈夫、この指切りは、あなたを裏切ったりしない。伝わるよう、真摯に、力強く頷く。

 同じポーズでじっと見つめ返し続けていると、迅先輩はついに根負けしたようで、そして決心したように、丁寧に一つ、息をついた。


「……約束」


 小指と小指が絡む。ぎゅっと繋ぎ止める。身体のほんの一部、そこから伝わってくる迅先輩という感触に、思わず破顔する。やがて迅先輩も、はは、と困ったように笑った。泣き笑いのような笑顔。それはきっと、先輩にとっての万全ではないのだろう。
 あなたが自分自身を好ましく思える日が来ますように。そのとき、隣にいるのがわたしでありますように、と切に願う。これは恋なんて心躍るものではなく、たぶん、意地とか自棄とか好奇心とか、あとは憐憫とか、庇護欲に似た、愛だといい。




owari