おまえと顔を合わせるたび傷がつく。あの子はまだ俺を信用してくれていないのだと。
鏡に映る自分に好感を持ったことは一度もない。人を見下し、拒絶し、己の心だけを後生大事に抱えて守っている、そのくせ誰かといるときは害も軋轢も生まない人間であるかのように振る舞える、図太くて醜い人間性が表面に現れているようだった。いつか誰かに見抜かれるんじゃないかと怯えていたが、予想に反してこの歳まで指摘を受けたことは一度もなかった。
誰にもバレていないことに毎日安堵する。このままの自分は嫌だと心底思っているのに、変わるための行動を起こすこともできず、きっと一生このままなのだろうと、どこか諦めてすらいた。
そんな自分が、鏡の中で勝手に動き始めたときは驚いた。鏡の中の俺は俺自身の狂気だと言い、誰にも打ち明けたことのない心のうちをこれでもかと的確に言い当てた。始めこそ自分はとうとうおかしくなったのだと半ば絶望したものの、奴の並べる言葉に不思議な説得力を感じ、耳を傾けるようになるのに時間はさほどかからなかった。
「俺を消すにはの心が必要だよ」
鏡の中の俺はそう言った。大学三年生の春、学部での新入生歓迎会が終わり帰宅した洗面所でのことだ。鏡の中の男は試すかのように見下げた笑みを浮かべたまま、自分を消す手段を教えてみせた。俺の欠陥部分。人を信じることのできない狂気。こんなの異常だ。俺だって他の人みたいに他人を信じたい。もし、信じることができたら――。
背筋が凍る。震えが止まらなくなる。途端に汗が滲み、息がうまくできない。思わず洗面台に手をつき、吐き気を懸命に堪える。生理的嫌悪感から視界が滲んだ。
人を信じようと考えて、いつもこうなる。心を寄せた次の瞬間、手のひらを返される。そんな惨めな絶望に苛まれる。早く、早く解放されたい。早く消えてくれ。
「……」
口にして、果たして誰だったかと記憶を巡らせる。記憶力に特別自信があるわけではなかったが、聞き覚えのある名前だ。おそらく今日同じテーブルになった一年生の名前だろう。思い当たったものの、回転寿司のごとく席が入れ替わる会だったため顔までは断定できなかった。人の顔と名前を覚えるのが得意な嵐山に明日聞いてみるか。講義が被っていればいいが、そうでもなければコンタクトを取ることは難しい。来月の飲み会まで待たなくてはならない。知り合ったあとはどう近づくか。
「……」
ふと、顔を上げる。無意識に考え込んでいた自分と目が合う。感情のない、計算だけをして安定を図っている、嫌な顔だった。
◇◇
という女子学生が嵐山に憧れていることはすぐにわかった。アイドルを見るような目で彼を追い、友人の三上歌歩とはしゃぐ姿を見るたび冷めた眼差しを向けてしまう自分がいた。能天気そうな子だな。軽薄にも見えた。嵐山を慕う人間は男女問わず大勢いたため、彼女だけに特別な雰囲気を感じることはできなかった。鏡の中の俺に言われなければ目に留まることもなかっただろう。
嵐山はいい奴だ。おそらく、大多数の人間にとって彼は善人に分類される。友達想いで情に厚く、人当たりも良い。それも、無条件に誰をも愛する博愛主義ではなく、相手を見て判断ができている。そう思わせる人柄だった。唯一、嵐山には本性がバレているのではと疑ることがある。それでも彼は俺の領域まではずかずかと踏み込まないでいてくれるため、この距離を保ってくれている間は、あいつと「いい友達」でいられるだろう。
嵐山に比べたら、は明らかに色のない人間だった。だが、どんな子だろうがどうでもいい。彼女が誰を想っていようが関係ない。どんな形であれ、この子の心が手に入れば、俺は人を信じることができる。この呪いから解放されるのだ。早く、早くこの子に心から信用されたい。
「からの信用、本当に得る気があるのか?」
「あるに決まっているだろ」
苦虫を噛み潰したような顔をした自覚はあるものの、目の前の鏡に映る自分は同じ顔をしない。相手を軽んじ、馬鹿にするようにせせら笑っている。嫌な顔だ。
手っ取り早く信用を得たいがために彼女へ協力を申し出たものの、逆に警戒されてしまった。悪手だったとの後悔の気持ちはあれ、他にどんな方法があったか考えあぐねて答えは出ていない。当てつけのように睨むも、相手は怯む気配もない。
「なら警戒心を早く解かないと。じゃないといつまでもこのままだぞ」
「わかってる」
「おまえだって俺がいるのは嫌なんだろう」
「……ああ、いやだよ。ものすごく」
吐き捨てる。それをきっかけに「俺」は姿を消し、鏡にはしかめ面の自分の顔が映し出される。短く息を吐き、もう一度手を洗ってからトイレの個室を出た。
ちゃんとはそれから、バイト先に顔を出したりキャンパスで話したりと接触を図っていた。想像していたほど彼女は単純な人間ではなかったし、能天気でも軽薄でもない。純粋に、侮っていた。まさか、それを本人に伝えることはしないが。せっかく距離を縮められているのに台無しになってしまう。
そう、彼女、すっかり騙されてなどいないのに、なぜか俺のことを知りたいと言う。半ばやけくそ、売り言葉に買い言葉のような風態で挑まれるものだから困惑してしまう。散々約束を反故にしている俺を信用などしていないはず。にも関わらず、どうして俺の近くにいようとするのか不思議でならない。最近は不気味にすら思っていた。
ちゃんと関わっても、鏡の俺は何も言わない。いつも通り嫌な顔で薄ら笑いを浮かべている。早く消えてくれ。消えてくれたら、俺は理想通りの俺であの子と向き合える。あの子を手段として見ずに済む。ずっとまとわりついていた罪悪感を振り払って、彼女と約束をして、彼女と穏やかな時間を過ごしてみたい。
「じゃあ、もしわたしが迅先輩のことをすきだって言っても、信じてもらえないんですか」
信じられたらどんなにいいか。
◇◇
瞬きを一つすると、見上げた先のカーブミラーに映る俺が口角を上げて笑う。自分の表情筋が少しも動いていないことを自覚している俺は、以降何度瞬きをしても消えない存在に落胆する。
「話が違う」
「話?」
「あの子は俺をすきだと言った。あの子の心が手に入ったんだ。なのにおまえは消えていない」
「その言葉を信じていないくせによく言うよ」
「……約束が違う」
「あっはは!」突如、「俺」が声を上げて笑う。奴が声を上げて笑うところは初めて見た。そしてなぜそれほど笑うのか、自分自身が一番よくわかっていた。思わず、身体の横で拳を握る。
「おまえの口からそんな台詞が出てくるとはなあ。約束なんて一つも守れない人間が」
「……」
「俺はおまえなんだから。俺の言葉だけが本当だなんて、虫がよすぎるんじゃないか?」
生唾を飲み込む。考えないようにしていたのかもしれない。なぜこの存在は、自分が消えてしまう方法をわざわざ教えたのか。消えたがっているようには粒ほども見えないというのに。追及して、縋っていた唯一の方法を否定されるのが怖かったのだ。
「……俺だって信じたいと思ってる」
「ならやってみせろよ」
「ほら後ろ。おまえの大嫌いなちゃんがいるよ」「――!」咄嗟に振り返る。奴の指の先、俺から少し離れた場所に、先ほど別れたはずの彼女が立っていた。目線が、カーブミラーと俺を交互に見遣っている。全身の血の気が引く。口を開くも、声が出てこない。
「やあ」
「あ、……」
「ちゃん、こっちに来る?」
「え、」
「?! 何を――」
次の瞬間、ちゃんの瞳が力なく閉じる。咄嗟に、崩れ落ちる彼女へ手を伸ばし抱き留める。
顔を覗き込むも、瞼は閉じられ開く気配はない。だが呼吸は感じ取れる。気絶しているのか?……俺のせいで。
血の気が引いたまま、どんどん薄ら寒くなる。自分のしたことの罪が今、腕の中にある。あいつは、やっぱり嘘を言っていないんじゃないか。俺なんかがこの子の信用を得ることは一生できない。騙して、間違いなく傷つけた。しかもこんな仕打ちを。「俺」の仕業に違いない。
見ると、あいつももう鏡にいなかった。青ざめる自分がこちらを見ている。まさか、本当に連れて行ったというのか。鏡の中に。
……巻き込んだ。この子は悪いことなんか一つもしていないのに。俺がただ、この子に好きになってもらいたかっただけなのに。
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