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 嵐山先輩に呼び止められたのは人生で初めてのことだった。振り返った先にその人がいることの幸福は幾度となく想像したし、いざ目の前にした瞬間、どこからともなく湧き上がる高揚感に舞い上がりそうになったのも本当だ。


「あっ、嵐山先輩…!」


 一人だったらしく、彼の周りに友人の姿はない。大勢の学生が行き交う広い大学構内でそれは異様に浮いているように見え、わたしまで視線を集めているような錯覚を覚える。固まって歩くより一人でいたほうが目立つんだ、不思議な魅力のある人だ。


「あのあと、迅とは会えたか?」


 嵐山先輩の口から迅先輩の名前が出てきた途端、既視感に襲われる。こんなことが前にも。
 そうだ、十月の学部飲みのとき。あのときも、わたしと歌歩ちゃんの席に嵐山先輩は一人でやってきた。もしかしたら、彼が一人でいることは珍しいことでもないのかもしれない。
 だとしてもわたしは、嵐山先輩が一人でいたり、わたしに声をかけてくれるたび珍しく思ってしまうだろうな。嵐山先輩のイメージを変えられないまま、見慣れることはきっとずっとないのだろうと、確信してしまう。
 だからつまり、わたしにとっての嵐山先輩というのは、いわゆる――。


「はい、昨日……」
「昨日?……そうか」


 神妙そうに顎に手を当てた嵐山先輩。もしかしたら迅先輩がすぐに連絡をくれなかったことに不信感を抱かせてしまったのかもしれない。二人の仲に亀裂など生じさせたくない。慌てて、でも大丈夫です、と声を張る。


「今日これからお茶する約束をしているので!」
「……約束?」


 今度は目を見開かれてしまう。え、と固まる。そんなに驚くこと?思わぬ嵐山先輩の反応に、わたしまで驚いてしまう。
 それに驚く箇所も不思議だ。「お茶」に反応したのならまだわかるけれど、彼は今、「約束」に反応を示した。まるで迅先輩が約束を取り付けること自体が稀有かのような……。
 でも、間違いではない。約束の時間まであと十分ほどだ。待ち合わせは大学近くの喫茶店。先に着いたほうが席を取ると決めていた。


「迅と会う約束をしたのか?」


 確認された言葉の意味を改めて咀嚼する。やっぱり、そこを意外に思っているんだ。


「は、はい」


 戸惑いながらも頷く。事実だ。わたしは確かに、迅先輩と約束をして、このあと二人で会うのだ。
 そう認識した途端、唐突に、自分がとても軽薄に思えてしまう。口から思ってもないことを言っているような、嘘っぱちでできた人間のように錯覚してしまう。どうしてそう思うのか、会話しながらでは考えられなかった。少なくとも今脳内に浮かんでいるのは迅先輩で、ほっとしたように笑ったり、困ったように目を逸らしたり、無表情にわたしを見下ろす彼を、無性に焦がれ、次の瞬間にはすべての元凶だと憎く思ってしまう。


「……」


 わたしにとっての嵐山先輩は、いわゆる、憧れとか、幻想に近い存在なんだろう。最近気付いた。おかげで、まったく違う、迅先輩がわたしにとって、可哀想で、悪くて、守りたい、ただひとりの人になってしまった。


「……迅?」
「!」


 顔を上げ、嵐山先輩が向いている視線の先へ振り返る。彼が呼びかけた名前の、そう迅先輩が、外から構内へ戻るように歩いてきていた。
 肩にバッグを掛け、ポケットに手を入れたまま歩いていた迅先輩はわたしたちに気付くと一度足を止めた。目を丸くし驚いたようにも見えた彼は、瞬きの間に笑みを浮かべると、進行方向を変えることなくわたしたちに歩み寄った。


「やー、お二人さん。こんなところでどうしたの」
「……」
「偶然会ったんだ。迅、おまえどうしてこの間のことをすぐに伝えなかったんだ?」
「ああ、タイミングが掴めなくてさ。ちゃん、本当にごめんね」


 迅先輩は嵐山先輩からわたしへ顔の向きを変え、申し訳なさそうに眉を下げた。蛇に睨まれた蛙のように声の出ないわたしはただ、嵐山先輩と会話する迅先輩を凝視することしかできない。


「それじゃ、俺は行くよ」
「あれ、嵐山今日何かあったっけ」
「図書館に行きたいんだ。また明日な」
「ああ」


 もまたな、と手を挙げて踵を返した嵐山先輩へのあいさつもままならず、彼が去っていくのを、二人無言で見送る。先輩は、嵐山先輩が十分に離れるのを待っていたかのように、後ろ姿が遠くなってから、ずっと楽しみに用意していたらしい言葉を吐いた。


「残念だったねちゃん」
「……え」
「嵐山と二人でお茶するチャンスだったのにね」


 迅先輩の台詞はときどき不可解なことはあったけれど、このときほど理解し難いことはなかった。すぐそばにいる人物が、得体の知れない何かに思えてくる。怖々と見上げると、やっぱりいつも通りの笑顔が見える。そのくせ「邪魔してごめんね」なんて、嫌味のような呆れのような諦めのような言葉を吐く。信じられず、咄嗟に声を上げる。


「何を……お茶の約束をしていたのは迅先輩とですよ!」
「でも嵐山に誘われてたらそっちに行ってたでしょ」
「行かないですよ!わたしを何だと思ってるんですか?!」


 その瞬間、迅先輩の表情が消えた。本のページをめくるように、ろうそくの火が消えるように、気付いたときには見えなくなっていた。わたしを見下ろす目は冷ややかで、この場に在ること自体を否定されているような錯覚すら覚える。


「……わ、わたし、ちゃんと時間通りに行くつもりでした、よ……」


 口にしてから気付く。待ち合わせ時間まであと何分もないのに、迅先輩は大学に戻ってきていた。喫茶店から遠ざかっていたのだ。忘れ物を取りに来たのだろうか。時間に間に合わないことを、連絡してくれていただろうか。今は怖くて確認なんてできない。


「そうだね、君は悪くない。君を信用できない俺が絶対的に悪いんだ」


 首の裏を、先端の尖った凶器でザクザクと刺されている感覚。声に温度などない。伏せられた青い瞳はわたしを見ていない。

 ずっと、何かを錯覚していた。迅先輩がときどき見せるそれはわたしを有頂天にさせるから、勘違いしていたのだ。迅先輩がわたしを好ましく思っていると、夢を見ていた。現実は、こうなのだ。
 彼の中にわたしへの信頼は少しでもあったのだろうか。だとしても今日で吹き消えた。


「わたしの言うこと、信じられないですか」
「……うん」


 半ば自棄だった。意を決した風に顔を上げる。しっかり、彼を見据える。


「じゃあ、もしわたしが迅先輩のことをすきだって言っても、信じてもらえないんですか」
「信じるわけないだろ。嵐山のことがすきって言ったのはちゃんだよ」


 心変わりさせたのはあなたでしょ。




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