ついさっきまで、自分は第二校舎の入り口近くに立っていたはずだ。第一校舎で講義があったわたしは、三限が終わって学生の流れに乗って校舎を出、第二校舎へと辿り着き、自動ドアを通ってすぐ隅っこに陣取っていた。前回の反省を活かしスマホで到着のメッセージを送り、十分が経った頃だった。
今日も講義終わりにお茶をしようと約束していた。言い出しっぺはわたしだった。それに先輩もいいねと頷いてくれて、お店はぶらついて決めようという話になっていた。迅先輩に行きつけというものはないらしく、空いていればどこでもよさそうだった。
先輩が講義を受ける教室は一階の入り口から一番近いところにあったけれど、鐘が鳴ったあとに出てきた学生の中に先輩の姿はなかった。おかしいと携帯を見下ろす。メッセージ画面に、相手が確認したという表示が出ない。
何かあったのかと電話をしてみると、コール音が鳴り響き、やがてブツッと切れた。……えっ?経験がないからわからないけど、もしかして今、向こうに受話拒否された?
え、なんで?頭に浮かんだ疑問と、同時に嫌な予感。背中に冷や汗がにじむ。違う、迅先輩、急遽お茶できなくなったんだ。電話にも出られないくらいの急用ができたに違いない。だから仕方ない。急用、そういえば前にもこんなことが――。
◇◇
そうして気付いたらまた不思議な空間に来ていたのだ。待っていた先輩には会えなかったのに、胡散臭さを先輩の形に石膏してできた人間が目の前にいる。彼は前にいたときと同じテーブルの上座に座り、紅茶の入ったティーカップを持ち上げて揺らしてはソーサーに戻すという無駄極まりない動作をしながらにこにこと口角を上げていた。目は笑っていないので少しも楽しそうに見えない。
わたしといえば、手に持っていたはずの携帯も肩にかけていたカバンもなく身一つの手持ち無沙汰で、無意識に口を尖らせてしまう。それを自覚したのは、手悪戯をやめた先輩がわたしへ顔を上げ、いよいよ可笑しそうに笑ったからだった。
「また同じ夢を見てると思ってる?」
「思ってないです」
口をついて出た否定に、自分で一瞬驚いて、でも妙に納得してしまえた。だってこんなに意識がはっきりしている。明晰夢にしては嫌に現実味がある。何か恐ろしいことに巻き込まれているのではと怖くならないわけではなかったけれど、目の前の存在が「迅先輩」を象っていることがわたしの緊張をほぐしていた。これが見知らぬ、恐ろしい外見の生物であったなら、きっと震え上がってしまっていただろう。だからなんとか、なんだかよくわからないけれど不思議な体験をしているんだ、と着地できた。
「あの、迅先輩に何があったのか、わかりますか?」
「君が考えていることで合ってるんじゃないかな」
「急用がよく入る人なんですか?」
目の前の先輩は口を閉じると、にっこりと口角を上げた。細めた目は相手を見下していることがわかる。わたしは、これほどまでに相手を馬鹿にした笑顔を作れる人間を、初めて知った。
「迅悠一は誰でも信じてしまうんだ。信じすぎて、君のことが見えていないのかもしれないね」
「……」要領を得ない返答。いや、だったらなんだというんだ。いろんな意味で、聞いたのが間違いだった。
ここが摩訶不思議な世界だとして、いったいなぜわたしがいるのだろう。そもそも、自分が部外者という認識は合っているんだろうか。なんとなくこの迅先輩が最初からいたような感じがするし、我がもの顔で居座っているから、感覚として彼中心の世界だと思っていた。彼が何者なのか、わかればもう少し対処のしようがあるのかもしれない。
「あなたは誰ですか?」
「だから、当ててみてよ」
「だってあなた、はぐらかしてばかりじゃないですか」
「はは。なのに質問ばかりするんだね、ちゃん」
馬鹿にした切り返しにカッと頭に血がのぼる。わたしがもう少し暴力的な気性だったら手が出ていたぞ。残念ながら力技での喧嘩をした経験がないため、身体の横で拳を握りこむことで苛立ちを抑える。
「じゃあいいです。先輩に直接聞くので」
「現実の迅悠一が正直に答えてくれると思ってるの?随分幸せ者だね」
「少なくとも人を悪く言ったりしないので、先輩は」
「俺だって悪気はないよ」
つい顔を歪めてしまう。ここの迅先輩は、嘘つきだ。そうだ、ようやく気付いた。もしかしたら嘘しか言っていないのかもしれない。それで平気な顔をしているなんて、ひどい人だ。
早く離れよう。相変わらず誰もいないガーデンパーティーの会場から去るべく踵を返す。背後で、椅子に座った迅先輩とピエロの人形たちがわたしを刺すように見つめている錯覚を覚える。緊張で手足の動きがぎこちない。気にするな。相手は嘘つき。ぜんぶ嘘なんだ。何も信用してはいけない。この人のことは。
「早く迅悠一に愛想を尽かしたほうがいいよ」
助言のような台詞に、足が止まる。
えっ?
振り返る。先輩は依然薄ら笑いを浮かべていた。しかし、驚くわたしと目が合った途端、ゆっくりと、何かに気付いたかのように目を見開いた。
◇◇
次に我に返ったときには現実に戻っていた。ほっと安堵する反面、あの世界はいったい何なんだろうと考えてしまう。あまりに非科学的で、自分は何かの病にかかっているんじゃないかと心配になってしまう。手の中にあるスマホを確認するも、やはり彼からの反応はない。
……迅先輩と鏡の向こうにいる先輩には面識がある。そして迅先輩は鏡の先輩に怯えている、とわたしは推察している。ああ啖呵は切ったものの、自分も鏡の先輩との面識があるのだと、本人に伝えていいものだろうか。他の誰に言えなくても先輩になら言えると思うのだけれど、まだ確証があるわけじゃないし、言ったところでどうにかできるわけでもない。なにより、先輩は鏡の中の自分を隠しているみたいだから、困らせてしまうかもしれない。
とにかく、それはそれとして、先輩の安否が知りたいな。待っていても仕方ないと判断し、駆け出す。目指すは先輩の教室だ。
階段教室は複数クラスが講義を受ける際に使用するため、百以上の座席があり単純に広い。しかし四限が終わってからしばらく経っているため、人影はほとんどなく、人を探すのは容易だった。にもかかわらず、目的の人物の姿は一向に見当たらない。代わりに、出口に向かって歩いてくる男子学生一行が目にとまる。
「あっ、嵐山先輩…!」
「?」
思わず声を上げ、嵐山先輩に駆け寄る。目を丸くする彼に、あいさつもそこそこに迅先輩の所在を問う。
「迅なら、講義の途中で帰ったよ。急用ができたって言っていたな」
嵐山先輩の簡潔な答えに、きゅうよう、と声を漏らす。そうだったのか、でも、それならなんで連絡してくれないんだ……。口を結び、俯く。さっきまで会っていた、鏡の中の先輩がちらつく。
「迅に何か用だったのか?」
ハッと顔を上げる。至って善意の顔をした、嵐山先輩の瞳がわたしを見ていた。一瞬、思考が停止する。それから、ゆっくりと稼働を始める。居心地が悪くて、俯き、スマホを両手で握りこむ。
「先輩と約束をしていたので……」
口にした途端、後ろめたさに駆られる、駆られてしまう。歌歩ちゃんにも言われたこと。きっと、もう、居酒屋での迅先輩を咎められない。わたしがしていることは、嵐山先輩への恋心とは両立しえないのだ。
嵐山先輩は一度何かを言葉にしようとして、それから、「そうか。俺からも連絡してみるよ」とジャケットのポケットからスマホを取り出した。嵐山先輩の親切に顔を見られず、ありがとうございますと頭を下げる。
「きっと充電が切れたんだろう。あまり気にするなよ」
励ますように嵐山先輩が声をかけてくれる。頷いたまま、もう一度同じ謝辞を口にする。
人間のできていないわたしは、嵐山先輩へのバツの悪さの矛先を迅先輩に向けたくなってしまう。急用が入ったなら一言くれたらいいのに。何のために連絡先を交換したんだ。こういうときこそ使うべきなんじゃないのか……。
……急用。やっぱり、前にもこんなことが。
(迅悠一は信用に値しないだろう)
たまたまだよね。
|