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「嫌だ、憂鬱だ」


 ソファ席の背もたれに寄りかかりながらぐだぐだと文句を零すわたしに、目の前の歌歩ちゃんはカフェラテをストローで揺らしながら苦笑いを浮かべた。

 夏休み前の関門として初めてのテストを控えるわたしたちはただ今、木曜の空きコマを利用して大学近くのカフェに来ていた。先ほど三限の講義で試験範囲が発表されてからというもののわたしの気分は低空飛行を続けており、溜め息をつきながらアイスココアを無意味にかき混ぜるばかりだ。四月から受けてきた講義は学問の基礎中の基礎のはずなのにすでに理解の範疇を超えていて、最近は教授の言ったことをメモするので精一杯で頭には何も入っていない。こんなのがあと七、八個もあるのだ。気も遠くなるだろう。大学側は学生のキャパをどの程度と見積もっているんだ。わたしはもうあっぷあっぷだぞ。


「一緒に勉強しようよ。わたしもわからないところ教えてほしいな」
「歌歩ちゃんがわからないところをわたしがわかるとお思いで…?!でも一緒にやりたいお願いします」


 テーブルに腕を伸ばして頭を垂れる。四月から気付いたら仲良しになっていた歌歩ちゃんは品行方正で授業態度も二重丸の見るからに優等生だ。性格も良くて小さくて可愛い彼女は男女問わず隠れファンも多く、同学年の学部の中ではちょっとした有名人だったりする。出会った初日、「猫目かわいいね」と褒めたら顔を真っ赤にして照れたかわいい歌歩ちゃんのことは一生忘れない。


「三上さんたち、試験の話?」
「え?あ、うん。どうしようねーって」


 顔を上げると歌歩ちゃんの後ろを通りかかった同じクラスの男子が話に入っていた。彼のコミュ力の高さに慄くべきか、お目当ての歌歩ちゃんへの行動力を賞賛すべきか迷いながら黙って聞いていると、どうやら試験では上下のコミュニティを利用すべしとのアドバイスをくれたらしかった。確かにうちの大学は比較的同学部の関わりは多く、月一のペースで学年を跨いだ飲み会が開かれているほどだ。クラスを縦で区切った講義もあるし、仲の良い先輩がいるなら過去問をもらえるかもとのこと。「もしアレだったら、俺からも頼んでみるよ」親切な彼はそう言い、歌歩ちゃんからお礼を受け取ったあと去っていった。粘っこくなくてなかなかいいアプローチだなあと偉そうに評価してみる。実際、一度目こそ合ったものの彼が歌歩ちゃん狙いなのは一目瞭然だった。いっそ微笑ましいほどに。


「先輩かあ…全然考えてなかったね。今度誰かに聞いてみようか」
「そうだねー」
ちゃんの気になってるあの先輩に話しかけるチャンスだね」
「そー………ん?!歌歩ちゃんいきなりブッ込んでくるね…?!」


 突然放り込まれた話題に大げさに動揺するわたし。クスクスと笑う歌歩ちゃん。歌歩ちゃんはこう、肝が座ってるというか、大胆というか、いい性格してるよなあ!ココアをぐるぐるかき混ぜるわたしに「ちょうど次の講義が同じだったよね」と促す彼女。わ、わたしが聞けってか…!


「か、歌歩ちゃんも一緒に来てくれるよね…?」
「もちろん。何かあったときはフォローするからね」


 グッと握りこぶしを作った彼女に、今度はわたしが苦笑いを浮かべる番だった。



◇◇



 五限の講義が始まる二十分前には教室に着き、真ん中の席を陣取る。入口のほうが話しかけやすいかなと思いつつ、黒板が見やすいほうがいいだろうと思いどちらともなくいつもの場所に落ち着いた。同学部の一年生から四年生各三クラスの学生が出席するだけあって人の出入りは多く、学年を問わず見知った顔があちらこちらに見えた。飲み会に毎回参加しているものの収穫が特にないので、元々名前まで知っている人はごくわずかなのだけれど。

 それでも、一度聞いただけで覚えられた人もいる。


「あ、来たよ」


 前の出入り口を見ていた歌歩ちゃんが腕をポンと叩く。それにつられて見ると、おそらく同学年であろう友人に囲まれながら、その人が教室に入って来ていた。姿を見つけた瞬間、心臓がどきどきとうるさくなる。先輩はみんなかっこよく見えると誰かが言ってた気がするけれど、わたしにはあの人が一際輝いて見えたのだ。


「い、行こ!!」
「うん」


 歌歩ちゃんを引っ張って先輩を追いかける。先輩たちは雛壇状になっている席の中央列前方を陣取るので、わたしたちは階段を降りたらすぐに駆け寄れる。それでもこの人は学部内の人気者なので、出遅れると誰かに捕まってしまうのだ。
 ああ今日もかっこいい…。思いながら、「あの、」一番通路側に座る彼へ声をかける。話したのは先月の飲み会以来だ。あのときもあいさつするくらいしかできなかった。


「嵐山先輩、」


 黒髪が揺れこちらを向く。エメラルドの綺麗な瞳と目が合う。


「ん?」


 口角を上げて応答する嵐山先輩。人当たりのいい笑顔にいちいちときめく乙女心よ。顔を真っ赤にしながら、もう引き返せないとややヤケになって、あの、と続ける。後ろで歌歩ちゃんが頑張れと背中を押してくれてるのがわかる。


「かっ…こ、今度の試験の過去問とか、持ってたりしますか……一年のときの…」


 どもりながら吐いた台詞に内心あああああ!!と叫び出しそうだった。この、コミュ障!日本語を学び直せ!叱責する自分の声に泣きそうになりながら俯く。「佐伯先生の講義なんですけど、出題形式とか教えてもらえなくて。よければ見せてもらえませんか?」言った通りしっかりフォローしてくれる歌歩ちゃんに心の底から感謝しながらも、情けなさに力なく頷くことしかできない。


「ああ、いいぞ」
「本当ですか?ありがとうございます」
「情報収集は大事だからな。多分部室に置いてあると思うから、来週持ってくるよ」
「ありがとうございます!やったね、ちゃん」
「うん、ありがとうございます…」


 ぺこりとお辞儀をするので精一杯だ。嵐山先輩の爽やかな応答に心臓が保たない。うう〜…かっこいいよおー…。歌歩ちゃんに応対を任せるという失態についてはあとで反省会を開くとして、もうお腹いっぱいなので退散することにする。よろしくお願いしますと事務的な言葉を別れのあいさつとして自分の席へ戻る。通路の階段を一段上がる。


「もう試験のことを考えてるなんて、ちゃんは真面目だねえ」


 はた、と立ち止まる。嵐山先輩じゃない。くるりと振り返ると、ひらひらと手を振る迅先輩と目があった。嵐山先輩の隣に座り、目を細めて笑う彼に、意図がわからないながらもへこっと会釈する。

 ……なんでわたしだけ。とか思うのは自意識過剰か。迅先輩の性格か、割といろんな人と交友関係があるその人はわたしに対しても気軽に声をかけてくる。そしてそんな迅先輩を、わたしはあまり得意に思っていなかった。

 だってあの人の目、怖い。まるで何かを見定めているみたいな、それでいて獲物でも狙っているような、狡猾な獣みたいに射抜かれるのだ。
 先頭で階段を上りながら、「よかったね」と振り返る歌歩ちゃん。同じ獣なら歌歩ちゃんの猫目のほうが百倍すきだ。




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