01


 そういえば、同じ大学だって言ってたなあ…。


 どこかぼんやりとする思考回路でのん気なことを考える。本当にのん気だ、今すべきなのはそんなことじゃなくて、ここからどうやって出るか考えることなのに。一時でもいいから現実逃避したかったのかもしれない。いいやでも、ここがすでに現実じゃないっていうのに。


 視界から色が消えてしまったみたいに辺りはモノトーンで埋め尽くされていた。地面はチェスを彷彿とさせる白と黒のタイルが敷き詰められていて、踵で叩くとヒールの小気味いい音がする。周りは煤けたモヤのような霧が立ち込めており遠くは見えない。どうせ、そこへは行けないのだけれど。ふうと溜め息をついて、さっきから無視できないでいる風景の存在に目をやる。
 チェス盤の床を囲うように、見るからに硬質の棘がそこら中に生えているのだ。おそるおそる近寄って観察してみると腰くらいの高さで、それらはところどころ黒ずんではいるけれどガラスのように見えた。ただし剣山と形容したくなるほどの無数の棘に触る勇気は微塵も湧いてこず、わたしは無意識に身震いしながら距離をとった。

 両腕をさすりながら辺りを見回す。…痛い。棘を見たせいじゃない。さっきから、気付いたらここにいたときから、身体中チクチクと刺さって痛いのだ。さっき自分が夢だと思って腕を抓ったのなんか忘れてしまったくらい、常に何かに刺されてる感覚がしていた。息を吸うのも痛い。

 まるで空気が刺さってるみたいだ。

 ごくんと固唾を呑む。毛布を被って痛みから逃れたい。ひいてはこの不思議な空間からどうにか逃げたい。出口はないのかときょろきょろと目を動かす。と、さっきまでは気が付かなかった、チェス盤を囲う棘が一部だけ生えてない箇所があった。ちょうどわたしの背後だったので、見落としてたのだろう。出口だ出口だ、とここに来て初めて心が踊る。思ったより狭い隙間に、棘に触れないようおそるおそる身体を滑り込ませる。


「……、え」


 向こうに何があるのか具体的に考えてたわけじゃなかったけど、まさか同じ空間が続いてるだけなんてことは想像してなかった。高揚した気持ちが一気に落胆する。出口じゃなかった。ここもさっきと同じように、棘の山で一周囲まれていたのだった。

 相変わらず色のない空間はチェス盤から生えそびえる木すらもモノクロだった。何度瞬きしても緑の葉や茶色の幹は見えてこず、不安になって自分の両手を見てみるといつも通りの肌の色があった。ほっと胸をなでおろす。どうやら目がおかしくなったわけじゃないらしい。おかしいのはこの空間だ。


「あれ?さん?」


 ガバッと顔を上げる。声。しかもどこか聞き覚えのある声に一気に血を取り戻した気分になる。心細さが融解した気さえする。すぐに振り返ると、最初は棘に隠れて気付かなかった場所に黒いソファがあった。そしてそこに座る一人の男の子。


「……きせくん…?」


 目を疑った。まさか彼が出てくるとは。ここが現実の世界じゃない以上わたしの夢だと思うので、まさか縁もゆかりもない黄瀬涼太がこうして目の前に登場するなんて思ってなかったのだ。
 だってあの黄瀬涼太だ。高校は一緒だったけど同じクラスだったのは三年のときだけだったし、まともにしゃべった記憶もない。中学のときからモデルをやってるらしくて高校でも有名人だったのは覚えてる。わたしの中での印象はその程度で、黄瀬くんに特別な感情を抱いたことは、一度もなかった。

 ああでも、そういえば、同じ大学だって言ってたなあ…。


「びっくりしたー。なんでさんがこんなとこにいるんスか?」


 記憶に違わない黄瀬くんの軽快な口調にたじろぐ。いくらわたしの夢にしたって緊張感のない人だ。でもイメージ通りだから問題ないのかな。むしろ全然違う挙動をされたほうが意味がわからないかもしれない。「そんなとこで突っ立ってないで、こっち座ったら?」混乱するわたしをよそに手招きする黄瀬くん。変わらない彼に引きつった笑みを浮かべながら歩み寄る。本当は座りたいとは思ってなかったのだけれど、厚意で空けてくれたスペースを無下にできるほど黄瀬くんとの心の距離は近くなかった。早く夢から醒めたいのになあ…。

 そもそも黄瀬くんは痛くないのかな、この空気。


「いたっ」


 思わず腰を浮かした。ソファに座ろうとしたら座面に触れたところから痛みが走ったのだ。空気だけじゃなくてソファもか、と落胆してしまう。本当に何なんだこの夢。大体、こんなはっきり痛覚がある夢なんて今まで見たことないよ。
 ともかく、こんなソファに座ってられない。申し訳ないけど遠慮させてもらおうと、首をすぼめて彼へ向く。


「あの、黄瀬くん……」
「ん?どうかしたんスか?」
「わたし、座らないでいいや」
「えっ?なんで?」


 目をまん丸にした黄瀬くんは素っ頓狂な声をあげた。本当にわからないらしい。よく見たら彼はこの、棘でも仕込んであるんじゃないかと思わせるソファに深く腰掛け、背もたれに腕まで回しているのだ。足を組んで余計体重が掛かってるようにも見えるのに痛がる素振りをちっとも見せない。「……」…夢の中に公平を求めるのはおかしいかもしれないけど、黄瀬くんも同じように痛がったっていいんじゃないか?もう、なんなんだ。わけのわからない夢に翻弄されて精神が参ってるのかもしれない。わたしはなんだか虚しくなって、やや俯き気味で答えた。


「い、痛くて…」
「痛い?」


 黄瀬くんが身を乗り出しわたしの顔を覗き込む。反射的に彼へ顔をあげると、さっきよりももっと大きくしてわたしをじっと見つめる目と合った。その表情にはわたしへの心配どころか叱責の感情は現れておらず、感じ取れたのは、そう、純粋なる好奇心だった。


「痛いって、どうして?」
「どうしてって、なんかこのソファチクチクしない?」
「チクチク?多分しないけど。ていうかもしかしてソファって座ると痛いもんなんスか?」
「ええ?そんなわけないじゃん」


 だんだんと自分の顔が歪んでいくのがわかる。一体何の話をしてるんだろう。黄瀬くんってもしかして天然…いや天然っていうか、ちょっと変じゃないか。わたしの中の黄瀬くんってもっとかっこいいイメージがあったんだけどなあ。あ、でも勉強はあんまりできないって友達から聞いた気がするから、ちょっとおバカなイメージがここに反映されてるのかも。うーんと顎に手を当て考え込む黄瀬くん。そろそろ話したいことを切り出してもいいだろうか、わたしはここからの出方を考えたいんだ。目を覚ましたい。「黄瀬くん、…」しかし肝心の切り出し方を考えてる間に、残念ながら先を越されてしまったのだけれど。


「ねえさん、ちょっとソファ座ってみてくれない?」


「へ?」何を言いだすかと思えば。突拍子もない黄瀬くんの頼みに固まってしまう。そんなわたしを、やっぱり黄瀬くんは気にも留めず腕を愉快げに引っ張る。「いっ」ピリッと静電気が走ったような痛み。黄瀬くんに触れられても痛いのか。思う間もなく、勢いに任せ片膝をソファに乗せる。体重がかかりさっきよりも強い痛みが刺さる。とっさに黄瀬くんの腕を振り払いソファから離れる。心臓がバクバクする。なんなんだこの夢。変だ。絶対変だ。


「へえー……さんは痛いとそういう顔するんだ」


 距離をとったわたしにポカンとしていた黄瀬くんはそれから、表情筋を緩めてそんなことを言った。楽しんでる?痛いとわかっててソファに座らせようとする感覚も信じられないし、まるで悪びれようとしない神経も信じられない。何なんだこの人。おかしい。わたしが座るはずだったソファの座面をギシギシと手で押す黄瀬くんに気味の悪さを覚える。


「やっぱり俺だけか。さんはいいなあ」
「いいなあって、いくないよ」
「なんで?」
「…痛いんだってば。わかるでしょ」


 その言葉に黄瀬くんは不快感を示したようだった。一変して眉根を寄せ前髪の隙間からわたしを見遣る。その攻撃的な視線でさえ、わたしには痛みを覚えた。


「わかんねえよ。俺、痛覚ないから」




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