ワンルームのローテーブルで何かの勉強をしているを一瞥し、本を読もうとソファに座った。土日は基本暇らしいとバイトが入ってない僕は加藤家で夕飯をご馳走になった翌日の日曜日、こうして朝から家に引き籠っていた。まあは課題に追われてるから止むを得ずって感じだけど。僕も特に用がなく、加えて出掛ける気分でもなかったためここにいる。ソファはの寝床になっていたが僕が片付けろとうるさく言ったら渋々掛け布団を畳んだ。「笹山って几帳面だよね」とぼそっと言われたが、誰の家だと思ってるんだと言い返してやった。おまえのすきには絶対させない。ここでの主導権を握られたらいよいよ終わりなことは直感していた。
 の大学が僕と同じということは昨日聞いた。寝耳に水な事実にらしくもなく素っ頓狂な声を上げてしまった僕とは反対には構内でずっと探していたのに全然見つからなかったんだと、何でもないように続けた。そんなこと僕の知った話ではない。そもそも誰から僕の大学を聞いたのかと問うと、お姉さん、と即答された。僕の知らないところでまだ交流があったか、と実家暮らしの姉の顔を思い浮かべては内心げんなりした。あいつ、それならそうと僕に一報入れろよ。先週も会っただろ。
 思い出して顔をしかめる。僕がどうこう言ったところで何かが変わる話じゃないとはわかってる。わかってるので、考えるだけ無駄なのだ。とにかく、今は静かだからいい。壁掛け時計の針の音、ページをめくる音。正面に背を向けて座っているのことも忘れ物語の世界に没頭することは容易く、そして気分が良かった。買ってそのまま積んでいたハードカバーの本は、読み始めると僕をぐいぐいと引き込んで行く。


「笹山ー」


 しかし残念なことに、静寂は破られるためにあるらしい。


「なに」
「助けてササえもーん」
「僕はおまえのドラえもんじゃないんだけど」


 背を向けたままいいからいいからと手招きされ内心イラッとする。しかし紐の栞を挟んで言われたとおりソファから立ち上がる僕はなんだかんだでに甘い。主導権を握られまいと生活してるつもりが三日目にして見失いかけていることに気付き、自分に呆れながら正座を崩して座る彼女を覗き込んだ。


「……何してるの」


 てっきり勉強をしているもんだと思っていたはよく見ると右の顔周りの後れ毛を一心にいじっていた。おいシャーペン床に落ちてるぞ。それを拾ってノートの上に置こうとして僕はやっとそこの惨状に気が付いた。長さのまちまちな短い髪の毛が何本も散っている。はっきり言って気持ち悪い。不快感を隠さず言ってやったのには僕を見ようともしない。言い方は変だけれど自分の後れ毛に釘付けだ。


「枝毛」
「は?」
「うわこれ長い」


 プツンと小さな音がした。近くまで来ないと聞こえない音だ。たった今切れた枝毛をそのまま手放すからノートの上に落ちるのは当然で、もう一度視線を落とすとそれらは今までの過程をすべて物語っていた。ていうか、それって枝毛じゃなくて切れ毛って言うんじゃないの。知らないけど。


「勉強しろよ」
「病み付きになってしまって」
「止めろ」
「止めさせてくれ」
「……」


 いつものことながらは馬鹿だ。めんどくさくて僕は手を伸ばし、(……)やや乱暴に髪の束を引っ張った。「いたっ」取り敢えず手は離れた。すかさず、またいじらないようにシャーペンと消しゴムを目の前に突き出し無理やり両手に持たせる。そうしてやっとノートの惨状に気付いたらしいは口には何も出さなかったものの眉間に皺を寄せたのが上から見下ろしている僕にもわかった。


「枝毛ってどうやったらなくなるんだろ」
「辞書で調べてみれば」
「調べたよ」


 それから、あ、と言ったのはで、消しゴムを持ったまま電子辞書の電源を点けた。明るくなったその画面にはおそらく自動で電源が切れる前にが調べたのであろう枝毛の解説が載っていた。たった一行だったから僕は声に出して読んでみる。


「毛髪の先が枝のように分岐したもの」
「でっていうね」


 まあそんなとこだろ。広辞苑がご丁寧に枝毛の処理方法なんて載せていたら電子辞書の容量はいくらあっても足りない。もちろんそんなのわかってた上で口にしたわけだけどは僕に言われる前に実行していたらしい。本当の馬鹿だと思う。どうして同じ大学入れたんだろう。何となしに問題の後れ毛を梳いてみると確かに毛先の方でばりばり言う。ああ傷んでるな、と思う。


「トリートメントとかしてるの」
「やってるよ。ここ重点的にやってるはずなのに気付くとこんなことに」
「切ればいいのに」


 顔周りないのは落ち着かない、とか言ってるには何も返さず、その後れ毛を耳に掛ける。こうすれば視界には入らないだろ。するとは一度ゆっくり目を閉じてから、ようやく僕を見た。窓から入る日差しがの黒目に光を与えている。一瞬、心臓を掴まれた気がした。


「笹山前で本読んでてよ」
「なんで」
「人がいればいじらないように気を付けられる」
「…べつにいいけど」


 掛けた後れ毛をそのままには笑ってシャーペンを置いた。僕は曲げていた腰を伸ばしソファに置いた本を手に取る。「髪の毛捨てとけよ」ぶっきらぼうに言えば「うん」と抑揚のない声が聞こえた。

 向かいにクッションを敷いて腰を下ろす。本を開き栞を挟んだ箇所から活字を目で追うも、さっきのように僕の意識を連れて行ってはくれなかった。頭は僕を見上げるの顔を反芻していた。あえて手じゃなくて髪の毛を掴んだのに意味がなかった。


 僕はただ、無駄に近づいてしまったことを後悔していた。




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