頭の奥をガンガンと殴られているかのような痛みだった。明らかに飲み過ぎた。激しい頭痛と後悔に襲われながら、僕はなんとか自宅のマンションに辿り着いていた。腕時計を見ると夜の十時を回っていた。早めに逃げてきたけれどアルコールの摂取量としてはいつもより多い。吐き気は店を出てからずっとだったが、道端で吐くのはプライドが許さず意地でここまで帰ってきたのだ。
 今日はOBの先輩たちが来ない代わりに別のサークルとの合同だったからみんなはしゃいでいたと思う。僕もはしゃぐ気分ではなかったものの素面でもいたくなかったから居酒屋の隅でそこそこ親しい友人を捕まえて飲んでいたのだが、なんとなく歯止めが効かず飲み続けてしまった。出掛ける前の家での出来事がそうさせたのは間違いなかった。
 眼前が点滅する。頭痛も一段とひどくなった気がする。うっと胃の中のものが逆流してきて必死に堪える。エントランスは抜けた。あとはエレベーターに乗って四階に行けば目の前が自分の家だ。

 一基のエレベーターに目をやると同時に、今家にいる居候の顔が浮かんだ。一瞬頭が冴え、スッと背筋が冷える。にこんなとこ見せたくない。
 自分の青い顔がより青褪めるのを感じる。無理。絶対吐く。僕は自分でも自画自賛するほど瞬時に、一階の団蔵の家に押し掛けることを決断した。踵を返し103号室を目指す。あいつがいなくても清八さんがいるだろ。最悪あいつの家の前で吐いても文句は言わせない。団蔵には先月、僕の部屋で盛大に吐き散らかした前科があるのだ。

 吐き気を必死で抑えていると支離滅裂なことを考えてしまう。とにかく解放されるために奴の家のチャイムを鳴らし、「はい?」団蔵の声に「僕」と答えながらドアノブを下げた。開いてる。

 常識なんてこの際どうでもいい。僕は家主の許可も得ずドアを開け放ち、靴を脱いでトイレへと直行した。場所はとっくに把握済みだ。玄関を上がったすぐ右隣の個室。白塗装された木製のドアを開け、すぐさま便器の蓋を開け吐いた。
 トイレに吐き出される吐瀉物を目に焼き付ける前に水洗レバーを回し流す。気持ち悪い。吐くのは嫌いだった。吐いたら楽になれるとは知っていても、汚いし気持ち悪いから嘔吐したくないと思っていた。


「おえっ……」


 二回目の水を流し目の前の吐瀉物が流れていく。生理的な涙がボロボロ流れる。くそ、だから嫌なんだ。はっはっと短い息をしながら胸を押さえる。ほんとうに馬鹿なことをした。こんなつもりじゃなかったのに。


「大丈夫か?!」


 ドアは開けっ放しだった。駆けつけた団蔵に廊下から声をかけられた。真後ろに立たれては顔を向ける気力もないため「ごめん」と謝ることしかできなかった。少し頭ははっきりしてきた。僕だってやむを得ない理由もなければこんな非常識なことしたくない。


「いや、いいけど……あ、水持ってくるな!」
「……ありが…」


 息が続かず最後まで言う前に団蔵は廊下を駆けて行ってしまった。荒い呼吸が収まらない。頬を伝って服まで濡らした涙をそばのトイレットペーパーで拭う。口元も拭い、丸めて便器の中へ放り投げる。はあ、と無理やり大きく息を吐く。まだ出てきそう。ほんと気持ち悪い……。
 便座に手をつき脱力する。でも自分の家帰んなくてよかった。その判断は我ながら見事だった。にこんなとこ見せたくない。そう思ったのは、家主の自分の行動を制限されることに憤るより先だった。

 廊下から足音が聞こえる。団蔵だ。吐いたことにより一気に体力を奪われ、振り返る気力がなかった。項垂れたまま目を閉じる。今日このままここに泊まらせてって言おう。ああそれからに連絡もしないと……。
 後ろの気配はドアを少し開け、その場に膝をついたようだった。それからふわっと僕の背中に手を添えた。その小さな感触に全神経が覚醒する。ガバッと振り返る。

 


「……おま、」
「笹山だいじょうぶ……?」


 だ。がいた。膝をつき、さすろうとでもしたのか僕の背中へ伸ばしたまま手が固まっていた。予想外の事態に頭が混乱する。なんでここにが、ていうか僕今、吐いて、

カッと顔に熱が集まる。思わずと反対の壁へ背中をぶつける。両腕で顔を隠す。見られた。こんなかっこ悪いとこ。あり得ない、ださい。


「ささやま、」
「なんでここに、」
「あ、加藤たちとご飯食べてた……ていうか具合、大丈夫?」


 真っ赤の顔が熱い。頭もグワングワンと揺れている。羞恥の念が強すぎて何も考えられなかった。そのせいか、「……!」三度目の吐き気を催しとっさに便器へ吐き出す。すぐさまレバーを回し水で流す。ケホッと咳をする。その間、は甲斐甲斐しい人間みたいに僕の背中をさすっていた。
 僕はもう、どういう気持ちになればいいのかわからなかった。恥ずかしかったり情けなかったり、腹が立ったり嬉しかったり。本当の気持ちを抑え続けてきた僕は正解が何なのかわからない。吐いてるときだけ出てくる涙が呼び水となり鼻の奥がツンと痛んだ。本当の涙が滲んだ。


「おまえ 意味わかんないんだよ」


 頭は全然冷静じゃなかった。もはやヤケですらあった。だとしても僕は吐き出さずにいられなかった。これだって間違いなく本心だ。


「なんで今さら、僕のとこになんか……おまえから離れてったくせに……くそ、なんで……」


 ボロボロと涙がこぼれる。やっぱり情けないのかもしれない。ちっとも嬉しくない。いい気持ちなんて少しもない。おまえといたって僕はこんなに苦しい。
 背中をさする手が止まる。振り返ると、は珍しく困ったような表情をしていた。眉をハの字に下げ僕を見ていた。それによって僕が罪悪感を覚えるわけでもなく、むしろ加虐心が芽生えたかのように今までの恨みつらみを全部ぶつけてやろうという気持ちになった。そんな顔したって僕は折れない。おまえにはいい加減迷惑してるんだ。絶対に今度は流されない、だから、帰れって、


「へいだゆう」


 全身が硬直した。心臓を掴まれたように思考が一時停止し、何も考えられなくなる。中途半端に開けた口が間抜けた表情を作る。ごめんね、兵太夫、わたしね。何か言おうとするに何も言えなくなる。結局そうなる。こんな簡単に気が削げる。はあっと息を吐きさっきと同じ壁に寄りかかり、目を伏せ手で覆い隠す。

 泣くのはべつに嬉しいからじゃない、情けないからだ。こんなこと、名前を呼ばれただけだ、喜ぶことじゃない。


「兵太夫にどうしても会いたくて……」


 おまえにとって幼なじみが特別なものならいいと思ってしまう。




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