の出掛けた先というのが俺ん家なわけでして。手ぶらでごめんねと珍しく塩らしい様子でやってきた彼女を出迎え、清八と三人で夜飯を食ったのが三十分前のこと。今やはソファの前に座り込んで小さくなっていた。温かいお茶を目の前のローテーブルに置くと、ありがとうと湯呑みを見ながらお礼を言った。言われたこっちが不安になるほどか細い声で思わず口元が引きつってしまう。

「笹山が飲み会でいないので」夜ご飯を食べに行っていいかというメッセージに二つ返事で了承したあと、どうしたのと聞いて返ってきた返事がそれだった。兵太夫が律儀に行く飲み会といったら絡繰同好会の他には伝七がいるあのサークルのだろう。OBに大物がいるし活動理念も崇高なものらしいけど、一回聞いた限りじゃ難しくてよくわからなかった。
 とにかく、は兵太夫がいないからウチに来たらしい。ローテーブルの角の位置で腰を下ろしてみたけれどの視線が床から動くことはなかった。ほんとにこっちが心配になるよ。なんか消えそうで。

 そんなの浮かない顔に既視感を覚える。こんな顔前にも見た気がする。それがいつだったかは思い出せないけれど、中学の頃だろうと勝手に決めつけた。大学で再会してからじゃないから多分。中三とかのことだろう。

 中三といえば、その年にはもう兵太夫離れを決意していたらしい。クラスが違かった俺は知る由もなかったけれど、彼女は幼なじみにベッタリだった自分を省みて中二あたりから徐々に距離を取っていたのだ。ユキちゃんに言われたことを鵜呑みにして、馬鹿正直に実行に移した。そこにの意思はなかったのかと問えば、一昨日ばったり会ったユキちゃんは苦い顔をして「あたしが結構強く言ったからあの子も納得したみたい。一応は」と言っていた。
 当時兵太夫とが一緒にいるところを見なくなって、俺はどう思ったっけ。まあそんなもんかって、疑問視はしなかった気がする。兵太夫の恋心と直結しなかった。本人に確認を取ったことがなかったし、確認してたらしてたで奴の鉄拳が振り下ろされるだけだったように思う。兵太夫は何も言わなかった。何も言わず、ただが自分から離れていくのを実感していた。

 想像してぶるるっと身震いしてしまう。自分のすきな子に、それまで間違いなく親しくしてた子に、ある日を境に距離を取られる心的ダメージは相当だろう。兵太夫のことだから誰にも相談なんかしなかっただろう。ただ一人で、幼い頃から一緒に育った子がいなくなる虚無感に襲われる。原因もわからずじわじわと首を絞められる感覚。生き地獄。恐ろしい単語が思いつき冷や汗を浮かべる。それを兵太夫が三年半前実際に味わっていたと思うとやりきれない気持ちになる。

 でもユキちゃんが口出したくなる気持ちもわかるよ。中一あたりは小学校の流れのまま仲良くしてたから。お互い別にやりたいことができてバラバラの方向を見ても、やっぱりは何かあれば兵太夫を頼っていた。それで兵太夫は昔からああいう風にぶっきらぼうな接し方するから、ユキちゃんも訝しげに二人を見ていた気がする。「がずっとアレにつきまとうのが、の人生のためになるとは思えなかったの」散々責任感じてるとか悪いことをしたと思ってるとか言ってた割に、昔抱いたへの思いやりの心に後悔はなさそうだった。その辺りは兵太夫への不理解と誤解が原因だと思うけど、まあ兵太夫の無愛想さは一見すると本当にうんざりしてるように見えるから仕方ない。十年間友達を続けてる俺は、あいつの肩を持ちたいと思ってるけど。


、兵太夫と同じ大学行きたかったのか?」


 はおもむろに首を向けて振り返った。前髪の隙間から覗く両目と合う。うるんでるように見えて一瞬ぎょっとする。が、彼女の目から涙がこぼれることはなかった。


「うん」
「……、」
「他は何でもよかったから笹山に会いたかった」


「そっか…」ここまできっぱり言われるとこちらが気恥ずかしくなる。知らなかった、ってそんなに兵太夫のこと……。「でもいくら探しても会えなかったから家に行ったの。笹山の迷惑なんて、もう知ったことじゃなかった」……ユキちゃんにしろにしろ、もう少し兵太夫を思いやる心を育んでほしい。


「笹山変わってないねえ」


 ハッと顔を上げる。ポツリとこぼれた声は心なしか、悲しそうだった。うつむき気味だったの表情は体勢を変え正面を向いたことで明るく朗らかになっていたのに。まるで作り物みたいに誰かの顔を貼り付けていた。


「わたしは三年、笹山がいなくてうまく成長できなかったけど、笹山はわたしがいなくてもちゃんと大学生みたいなんだもんなあ、嫌だなあ」


 笹山と同じ高校に行きたかった。加藤と夢前くんみたいに笹山と思い出を共有したかった。一緒に受験勉強して同じ大学に行きたかった。貼り付けた笑顔のまま滔々と語るに心臓がじくじく痛む。兵太夫に聞かせてやりたい。おまえこんなときにどこ行ってんだよ、早く帰ってこい。


「大学では、一緒に帰ったり一緒にご飯とか食べたかった。わたしたち幼なじみなのになんでそばにいられないんだろ」
「……って兵太夫のこと、」


 そのときようやく、の仮面が剥がれた。細められた目が開き、上がっていた口角はゆっくりと落ちていった。仮面の下はほとんど無表情だった。藍色の悲しみを心臓になみなみと注がれた彼女は身体を維持するのも困難なように、今にもゴロッと崩れてしまいそうな危うさをにじませていた。「加藤がうらやましい」


「わたしは幼なじみなのに名前も呼べないの」


 息苦しい。まるで当事者みたいな息苦しさだった。俺はもはや、自分が誰に同情してるのかわからなくなっていた。訳のわからないまま恋心に終止符を打たれた兵太夫。兵太夫を再び取り戻したいを思って助言したユキちゃん。全員の思惑は見事にすれ違った。

 でもまだ、手遅れじゃないだろ。


がしたいようにするのが正解だと思うぜ」


 そう言うと、は俺をじっと見たあと、今度こそ本人らしげに笑ったのだった。


「でも高校で笹山がいなくて寂しそうにする見て悪かったと思ったのよ!まさかあんなに兵太夫がいないと駄目だとは思わなかったし……」ユキちゃんの言葉を思い出す。俺もそんな風に思ったことなかったよ。兵太夫に関しても。お互いがお互いのこと大好きすぎて諦めるなんて、誰が想像できるだろう。

 壁掛け時計に目を遣ると夜の九時を回っていた。兵太夫の飲み会はまだ盛り上がってるんだろうか。




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