大学で使っているリュックはA4のファイルが余裕で入る大きいやつだからプライベートでは無駄に場所を取って邪魔なのだ。腕時計を見て夜の約束までかなり時間があることを確認し、四限が終わってすぐに一度帰宅した。最寄駅から十分ほど歩いたところにあるマンションに着き、ドアの前まで来たところでキーケースを取り出す。鍵を刺して決まった方向へひねると解錠される手応えを感じた。はまだ帰ってきてない。すっかり居座るようになった居候の不在に覚える感情は安堵でも落胆でもなかった。居たら居たで疲れるのに、かといって喜ぶ気持ちも湧かないのだ。まだほんの七日間だ。にもかかわらず同居が染みつきつつある自分に辟易し、ドアノブを下げ部屋へと入った。
 案の定暗い室内は無意識に伸ばした指が照明のスイッチを押したことによって明るさを取り戻した。ショートブーツを脱ぎ捨てリビングに敷かれたカーペットにカバンを置く。数日は当てつけのように壁際のソファへ放り投げていたけれど、だんだん虚しくなってきたからやめた。もはやあいつの居住空間と化したソファには掛け布団が乱雑に置かれ、そばにはチャックの閉まっていないスーツケースが横たわっていた。

 誰かに聞かせるみたいに吐いた溜め息は思ったより大きく、そのことにまたうんざりした。こんな生活がいつまで続くのだろう。前に言われた通り団蔵の家に避難する日も遠くないのかもしれない。立ち尽くし、拳を作る気にもなれなかった。もう充分自分が情けないんだよ。

 玄関からドアの開く音がする。それから足音。僕を現実に引き戻す音だ。ほどなくして廊下から顔を見せたそいつに、言ってやりたいことはたくさんあるのに何も言えない。


「ただいまー」


「……おかえり」なあ僕は、何を許されたわけでもない関係のまま、おまえといつまで一緒にいればいいんだ。

 笹山何してたの?首をかしげるから目を逸らし適当にごまかす。丸くした目で僕を見る彼女には気付かないふりをして、逃げるようにクローゼットへ足を向けた。出掛けるためのバッグを出そうとしたのもあるけれど、と距離を取りたかったのだ。耳でカバンをソファに置いたのを察し、銀色の取っ手に手をかける。


「家一緒でも帰り道会わないね」


 彼女の声にはあえて目を合わせず、そうだねと短く返す。どこかさみしそうな声音に心臓のあたりが痛くなったけれど必死に耐えながら片側だけ開けたクローゼットから適当にカバンを引っ掴んだ。おまえはいつも何を考えてるのかわからない。記憶の中の小さいおまえもよく突拍子もないことしてたけどまだ可愛げがあった。今じゃ意味不明な言語を発する未確認生命体のようだ。僕は惑わされたくない。おまえがまるで、会いたかったって言ってるみたいだなんて、そんなのでいちいち動揺したくない。おまえのそばにいたくない。

 思うほどにおまえのことがすきだと身にしみてしまう。


「笹山どっか行くの?」
「僕今日サークルの飲み会だから」
「え、」


 顔を上げた自分の目つきが悪いことは自覚していたけれど、そんな僕には頓着してなく、むしろ彼女の方が顔をしかめて不快な表情を示していた。口を結んで何かを堪える様子の彼女に呆気に取られてる間に、当のは「じゃあ出掛ける」と立ち上がったのだった。


「は?」
「笹山いないなら出掛ける」


 言うなりカバンから教科書をドサドサと出し始める。言葉の意味を理解する前に支度の終わったは軽くなったカバンを肩にかけ、「……」何を思ったのか再びソファに座り直した。なんだよ、なんだよ。僕だって飲み会の一つや二つ、ある。当てつけみたいに拗ねられる筋合いもない。おまえは昔からわがままだったけど、ちょっと突拍子なさすぎるんじゃないか。この状況にヘソを曲げたいのは僕のほうだ。何か恨み言でも言ってやろうかと口を開きかけた瞬間、


「わたし笹山の幼なじみだよね」


 ポツリと呟くような声。床に目を伏せた彼女の表情はうかがえない。声のトーンから落ちているのはわかったが、それが僕の受けた衝撃を悪化させたのか緩和させたのか、このとき考える余裕はなかった。


「うん」


 かろうじて頷いた肯定には肩の緊張を解いた。僕といえばいよいよ虚しさに襲われ、手早く荷物の移し替えを終えると早々に家を出て行った。

 早足で駅へと向かう道のりで、脳内ではいろいろなことが駆け巡っていたけれど、どれもに関することばかりで無意識にくちびるを噛み締めていた。
 釘を刺されたのか。おまえと僕は幼なじみでしかないって。それ以上はないって。眼前が赤く点滅している錯覚。胸を圧迫されてる。息がしづらい。どうして僕がこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。僕の気も知らずにのんきな女め、本当に、ふざけんなよ、なあ。

 信号を渡ったところで立ち止まる。俯いたまま肩で息をする。心臓はドッドッと気味悪く脈打っていた。


 できることなら幼い頃の僕に言ってやりたい。

 幼なじみなんてクソ食らえだ。




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