16時30分、僕らは現在、大学構内の食堂に来ていた。

あのあとも部室で怪しまれない程度にクラブに関することを聞いてみたが、めぼしいものは特になく、厚意でもらったクラブ誌を受け取った僕らは早々にその場をあとにした。「YOU CRY」のヒントで得られる情報は伊東末彦氏の除名処分についてが濃厚だろうとの意見に工藤くんも同意し、僕のツテで本庁の情報を引き出すことにした。工藤くんも彼独自のネットワークがあるだろうと聞いてみたのだが、「警視総監の息子には負けるよ」と返された。とはいえ、僕としても話を広げたくなかったので父の耳には届かないよう知り合いの刑事に頼んだため、彼の言い分は理由にならなかったのだが。それに、そう言いつつ彼が何やら真剣な顔で携帯を操作していたのは少し気になった。

その後仕入れた情報を話すためやって来たのが学生食堂だった。やはり夏季休暇中も利用者は一定数いるらしく屋内はそこそこ賑わっていた。といってもランチタイムはとうに過ぎているため席の確保は容易く、迷惑にはならないだろうと判断し僕らは四人席を陣取ることにした。白い長方形のテーブルを挟んで向かい合い、お互いコーヒーカップとコーラのグラスを手元に置いて場を整える。


「で、警察は何だって?」
「伊東末彦氏は例の現金輸送車襲撃事件の犯人として、現在、指名手配されているそうです」
「へー…だから部室から写真を外されたんだな」
「情報はそれだけじゃない」


広げたメモ帳に目を落とす。「彼は大学を卒業後、投資顧問会社を経営していたんですが、」工藤くんが小さく相槌を打った。続く言葉が何なのか推測しようとしているようだった。


「その会社、ファーイースト・オフィスでも、四月八日に殺人事件が起きていました」
「…! …じゃあ、もしかしたら」


同じことを考えたらしい。僕は神妙に頷いた。「ええ。依頼人の解決してほしい事件とは、こっちのことかもしれません」





横浜海洋大学から一時間ほど車を走らせやってきたファーイースト・オフィスは、既に会社としての形は残っていなかった。ビルは寂れ、明かりは灯っていない。外から見た限り人の気配は感じられなかった。夏場なのでまだ日は高いが、IDの時刻はもう17時57分を示していた。あと4時間と少し。
廃ビルとまではいかないが倒産し次の管理人のいないそこは今やもぬけの殻だった。入り口のガラス扉に貼られた簡易な張り紙を前にし、工藤くんの方は不敵に笑う。





「関係者じゃねーが、入るよな?」
「もちろん」


僕らに残された時間はわずかだ。躊躇はしてられない。一歩踏み出し扉を押しやると入り口は簡単に開いた。こんな張り紙があるくらいだから、施錠はされてなくて当然だ。ガラス扉の向こうはやはり人気のない殺風景な屋内になっている。エントランスというにはこじんまりした広さで、すぐ正面が階段となっていた。この最上階が例の事件現場である部長室らしい。そう階数があるわけでもなく、僕らは早速階段を登り進めることにした。

先陣を切る僕の後ろでポケットに手を入れきょろきょろと目をやりながらついてくる工藤くんに一度振り返る。彼も緊張感を漂わせており、辺りに気を張っているようだった。
彼には車の中で事件の概要は説明してある。殺害されたのはファーイースト・オフィス営業部長の西尾正治氏。向かいのビルからライフルで狙撃され即死だった。使用されたのはチャーターアームズAR7。スコープ、サイレンサー付き。ビルのトイレには装弾数である八発分の薬莢が落ちていた。そのうちの一発が西尾氏の後頭部に命中したとみて間違いないという。
社長の伊東とは大学時代の同級生で、同じ犯罪研究会に所属していた。あの集合写真で伊東の右隣に映っていた、長髪で褐色肌の人物がそうだった。


「ここか?事件現場」
「ああ」


ドアを開け入った部屋は先ほどの部室と比べると随分と広い印象を与えた。入って正面の壁には天井から床近くまでの大きな窓があり、ブラインドが降りて日差しの侵入を和らげている。その手前には大きめの仕事机、右にテレビ、左にはクローゼットが置いてある。さらに入り口側にはソファとローテーブル、左にはワインが並べられた棚とカウンターがあり、ここでバーの真似事もできるようだった。


「少しホコリをかぶってるけど、事件当時のまま保存されているようですね」


放置の間違いかもしれないが。カウンターの上にうっすらと溜まったホコリを目にしながら、奥の窓際へと足を向ける。殺人事件があったビルなんてもう買い手はつかないだろう。そのうちこの部屋にあるもの共々撤去されることになる。
仕事机と窓の間、元はエグゼクティブチェアがあった場所を覗き込むと、存在感のあるそれは横に倒れ、カーペットには血の染みが、目立つところで二箇所、できていた。「、……」同じようにしてそれを目の当たりにした工藤くんが後ろで息を飲んだのが気配でわかった。それを不審に思い目をやるが、表情に動揺はそれほど現れておらず、気のせいかと思い直した。僕と同じ探偵だ、現場慣れはしているだろう。


「…ん?」


今気付いたのだが、ブラインドは事件当時は上がっていたはずでは?ブラインドだけじゃなく窓もだ。聞いた情報ではそうだったはず。右から仕事机を回り込み、ヒモを引っ張って白のブラインドを上げる。窓はまだわかるが、なぜブラインドまで下げたのだろうか。単に警察が調査した際下げたのをそのままにしただけか。


「向かいのビルってあれか?」


少し思考にふけっていたところ工藤くんは反対側から回り込んでいたらしく、窓の外を覗いて指差していた。足元の血だまりの痕は避けたのだろう。一瞬床に目を落としてから、彼の視線の先を追う。そこには確かに、住宅街の真ん中に一棟のビルが建ちそびえていた。肉眼でもはっきりと捉えられる、こちらに面した小さな窓が各階にあった。おそらくあそこがトイレなのだろう。ここまでの距離はそこそこある。しかし遮蔽物は何もないため、明るい時間帯なら命中率はそう低くはないだろう。と、言うのは簡単だが、この現場の状況ではそうも言ってられないか。「そうでしょうね」電話で聞いただけだから正確には言い切れないが、周りの立地状況からして確定していいだろう。窓に背を向け、今度は仕事机の引き出しに手を伸ばす。鍵は掛かっていなかったが、もちろん中身も空だった。


「伊東氏が書いた現金輸送車襲撃の計画書が入っていたのはここでしょう」
「伊東の指名手配は現金強盗と西尾殺害の二つの容疑でなんだよな」
「ええ」
「じゃあなんで清水麗子は取り調べられたんだよ?」


そう、この事件の登場人物はもう一人いる。清水麗子、伊東氏と西尾氏の同級生だ。集合写真にも、中央の伊東氏の左隣に映っていた。
彼女もこの会社で秘書室長として働いていたが、五月十五日に投身自殺をしている。西尾氏の射殺事件のことで警察から任意での事情聴取を受けていた期間中のことだった。もっとも、海に飛び込んだ彼女の遺体は見つかっていないらしいのだが。
しかし彼の疑問に答えを提示することはできない。「経緯まではわかりませんでしたよ」詳しい話は神奈川県警から聞いた方が得られるものは多いだろう。警視庁のツテでは限界がある。それに彼女は結局何一つ自認しようとしなかったらしいから、真実は定かじゃない。煮え切らない返答をしたからか工藤くんは「ふーん…」ともう一度窓を覗いたあと、話をガラッと変えてみせた。


「なあ、他の部屋見てきていいか?」
「え?ええ、構いませんが…」


ここ以外に現場検証?見て何か得られるものがあるだろうか。正直疑問に思ったが、まあ軽んじるのも良くないだろう。次に向かう当てはないし、好きにさせるか。了承が得られると彼はそそくさと部屋を出て右を曲がり、廊下の奥へと姿を消した。廊下は突き当たりにビルの裏手が見える窓があり、他の部屋はもう引き払われて空き部屋になっているはず。それを思い起こしながら、僕は床に片膝を付き、大きな血の染みを観察し始めた。

イスは僕から見て向こう側に倒れている形だ。そのイスは四つのキャスターのうち、一つが撃ち抜かれて吹き飛んでいた。それから倒れる前のイスの位置には大きな血の跡。イスの背もたれには座面に対し垂直に血が流れた跡がある。これだけで相当の出血が見てとれた。
反対に、と奥へ目を向ける。イスに座った状態で倒れたとき、頭部が来るであろう位置にも血の染みはあったが、イス周りと比べて随分と少ない血の量だった。


「……」


こんな不自然な血痕の残り方になるにはあの方法しかない。確信し、立ち上がる。
顎に手を当て思考の海に潜る。……容疑者は二人、役者は揃っている。しかし本庁によれば、肝心の彼らは片や命を捨て、片や行方不明になっているらしいじゃないか。そのため事件は加害者不詳で片付けられている状態という。ということは、僕には出来て犯人の特定までだ。犯人の身柄を確保するのがゴールだと思っていただけに腑に落ちない。依頼人はこれで納得するのか?

……というか、彼はなぜこの事件を解決させようとしているんだ?


「…、着信」


背中のバッグから電子音が響く。依頼人とのホットラインとして渡されたスライド式の携帯だった。


「はい」
『想像以上だよ白馬くん。こんなに早くそこまで突き止めるとは。…解決してほしい事件がわかったかな』


七時間ぶりのその声は相変わらず嘲笑を含んでいるようだった。ヒント形式というこの依頼のシステムといい、癇に障るな。しかし下手に刺激するのは逆効果だというのもわかっていたので僕は努めて冷静に、彼への受け答えをしてみせた。


「西尾正治氏の射殺事件、ですね?」
『…ああ…』


受話口から感嘆の溜め息が聞こえる。それが意味する理由に思い当たる。「あなたは、まさか…」核心に触れる。しかしその前に向こうから通話を切られてしまい、追及は叶わなかった。…クソッ。もどかしい気持ちになり思わず悪態をついてしまう。それから落ち着かせるように溜め息をつき、二度かぶりを振った。

依頼人の正体があの人物だとしたら、僕たちのやっていることは彼に何のメリットがあるというんだ。罪を重ねてどうしようと。駄目だ、まだ不確定事項が多い。早合点は褒められたことじゃない。

とりあえず、どこかに行った工藤くんに依頼人からの連絡があったことを伝えよう。GPSが組み込まれているのなら行動を共にしてることは伝わっているはずだし、そんな二人にわざわざ一人一人掛けるのも手間だ。僕の方にしか掛かってきていないと考えるのが妥当だった。
が、今度は自分の携帯の方が着信を告げた。電話ではなく、メールだった。送信者はさん。


[ミラクルランドで和葉ちゃんと蘭ちゃんと、蘭ちゃんの友達の園子ちゃんに会ったよ!三人ともIDを付けてたので、外に出ないよう見張ってるよ!]


短いながら彼女の安全を確認して安堵する。メールでも明るいのはいつもの彼女だが、今も元気、なのだろうか。少し無理をしているように見て取れなくもなかったが、詮索したところで離れたところにいる自分にできることは、事件を解いて早く安心させてあげることだけだった。気を引き締め直し、内容について考えを巡らす。
失念していた。依頼人の言った通り僕の他に現在調査中の探偵が二人いるということは、その二人の人質がミラクルランドにいてほぼ間違いない。今まで外に出た被害者が一人もいなかったのは幸運としかいえないだろう。知らぬ間に綱渡りをしていた気分になり今になってどっと心労が襲う。二人の探偵うち一人が工藤くんだから、蘭さんと友人の園子さんは彼に連れられて来たのだろう。そしてもう一人が……。


「あん?白馬やんけ」


「……」タイミング良く聞こえてきた声に、ゆっくりと後ろを振り返る。開け放した入り口の真ん前に、色黒の彼が立っていた。


「…ああ、君も探偵でしたね…」
「ああ?!どういう意味じゃボケェ!」


そのままの意味だよ。無意識にはあと溜め息をついてしまう。こんなときに無駄な脱力感に見舞われ、情けない気分にすらなる。まったく考えてなかったな、そもそも自分以外の探偵が誰かについて考察した時間はほぼない。考えたとして、服部平次という探偵の登場を予想できたかといったら微妙だが。
決して実力を認めてないというわけではないが、名前の挙がった茂木さんや槍田さんの流れで行くと彼には辿り着かないだろう。活動拠点が遠いことも理由の一つだ。工藤くんと出会ってからよく考えていたらまだ可能性は考えたかもしれないが。


「一応聞くが、君もかい?」


右腕につけたIDを見せると彼の方はまだ何か言いたげた表情のまま、長袖をまくり同じものを見せた。こんなところに来ている時点で明らかだったが、やはり彼がもう一人の探偵なのだろう。「まさか自分も依頼されてたとはなあ」歩み寄ってくる彼にややジト目の視線を向けられる。…なるほど、確かにどういう意味か問いたくなる台詞だな。一人納得していると彼は僕の横を通り過ぎ、足元の倒れたイスや血痕に目を落としたようだった。


「自分、一人か?」
「いえ、僕は工藤くんと…」
「工藤おるん?!あいつ長野にキャンプやって毛利のおっちゃんが言っとったけど…ちゅーか自分いつ正体知ってん?!」
「は?キャンプ?」


彼は何を言っているんだ。しばらく会わない間にまた彼のペースがわからなくなったらしく剣幕に若干押される。詰め寄る服部くんに疑問符を浮かべていると、今度は廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。…ああ丁度いい、長野だか何だか知らないが、今ここにいる本人に会ってもらった方が早い。


「おい白馬急いで逃……ゲ」


駆け戻ってきた当の工藤くんは随分切羽詰まった様子だった。しかし僕と服部くんを目にした途端、表情が固まる。「工藤くん?」服部くんもポカンと口を開けているではないか。その彼の指が、わなわなと震えながら、工藤くんへと向けられる。


「か、か…」
「は?」
「怪盗キッドや!!」


彼の大声が鼓膜を貫くのと同時に、ガラスの割れる派手な音が下の階から響いた。


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