ひったくりの犯人に襲いかかられ逃げる隙もなく後ろから左腕を回された。恐怖におののき身体に力が入らない。抵抗もできなかった。


「近寄るなよ…?近寄るとこの女の命はねえぞォ…?」


どこから取り出したのか、犯人の右手にはナイフが握られていた。銀色の切っ先が視界に入り身体が一層震え上がる。それを首元まで近づけられ、わたしは声も出なかった。
犯人がジリジリとゲートへ後ずさりしていくのにされるがまま、わたしも少しずつ足を後ろへ動かしていく。周りには次第に人だかりができていた。


!」
「なっ…落ち着きたまえ小泉くん!」


一瞬紅子ちゃんの声がして目を向ける。顔を青くして、今にも飛び出しそうなのを目暮警部に止められていた。
心臓はこれまでにないほど大きく音を立てている。緊張で脳まで動悸が届いているようで、わたしはほんの少しだけ口を開けて、呼吸をした。歯をくいしばる。「うう…っ!」足を止め、犯人に抵抗するつもりで首に回されてる左腕を掴む。むき出しの皮膚に爪を立てる。「んだテメエ!!おとなしくしねえとぶっ殺すぞ!!」目の前で刃先を突きつけられヒュッと息を吸う。指の力は抜けた。踏ん張っていた足も緩み、また犯人のペースに合わせて動き出す。恐怖でガクガクと震えていた。
犯人はわたしが抵抗するとわかったからか慎重に、後退するペースを落としたようだった。でも時間を稼げたところで、このあと訪れる未来に変わりはない気がした。嫌だ、どうしよう。


「君!その子を離しなさい!私が代わりに人質になろう!」
「人質ならあたしが!ちゃん捕まったんはあたしのせいやし…!」
「君たちは駄目だ!…あ、いや、民間人の君たちを身代わりにするわけにはいかない」


「ぐだぐだ言ってんじゃねえ!人質の交換は絶対しねえ!!」頭上から聞こえる怒声にいよいよ事態の深刻さが現実味を帯びてくる。掴んでいた犯人の腕から自分の左腕を離し、手の甲を向ける。IDの赤いランプはすでに点滅を始めていた。もうすぐ。腕についた小型爆弾の作動が、わたしの恐怖をより追い立てた。ゲートまでもう5メートルもない。このままじゃ、ゲートを通ってしまう。園外に出たら、わたし、嫌だ、嫌だ…。


さん!!IDを外してください!!」


後ろから聞こえたのは、白馬くんの声だった。その瞬間だけ、わたしは自分が捕まってることを忘れ、何の躊躇いもなく後ろを振り返ろうとした。
しかしがっしりと犯人に首を押さえ込まれ姿を見ることは叶わなかった。でも今のは、間違いなく白馬くんだ。緊張のせいで言葉は聞き取れなかったけど、白馬くんが、帰ってきてくれてる。


さん!!」


悲痛な彼の声。死にたくない。嫌だ、こんなところで、白馬くんの目の前で、こんな知らない人を巻き込んで、死にたくない。

大きく息を吸う。ナイフはわたしの首近くに構えられてる。見える。
刃を掴む。


「なっ?!」


犯人は怯んだけれどナイフは離さなかった。振り払おうとしたのか勢いよく手前に引かれたせいでわたしの手に鋭い痛みが走る。肉を切った感触が伝わったのか、動揺した犯人の左腕は一瞬緩み、わたしは力任せに前に倒れこんだ。解放された。両膝をつきそのまま両手も地面について四つん這いになる。「確保だ!!」この隙を逃さず目暮警部の声が轟く。わたしを置いて左方向へ逃げていく犯人を何人もの警備員が追いかけていった。ペタンとへたり込む。


!」
さん!」


紅子ちゃんと白馬くんの声が耳に届く。紅子ちゃんは園内の人混みの中から、白馬くんはゲートを通って、駆け寄ってきてくれた。


、大丈夫?!あなた何したの?!」
「ナイフを押しのけませんでしたか?!怪我は?!」


膝をついてわたしの安否を確かめる二人は初めて見るくらい切羽詰まった表情をしていた。心の底から心配してくれているのがわかる。そんな二人を見て、わたしの涙腺はついに崩壊した。じわりと滲む視界、すぐに開けてられなくなる。


「うあ゛あ〜〜ん…わああ〜〜」


わたしはもう、怖かったとかほっとしたとか、いろんな感情が身体中で掻き混ざって、泣いた理由すらもよくわからなかった。でも泣き止むのもできなくて、ゲートの真ん前なんていう目立つ場所で、盛大に泣きじゃくった。紅子ちゃんが背中に手を回してさすってくれる感触が伝わる。「! さん、やはり怪我を…!」白馬くんに、涙を拭うために上げた右腕を掴まれた。紅子ちゃんも息を飲んだのがわかった。
右の手のひらは手相に沿うように横一文字にパックリと切れていた。思いっきり握ったせいで深く刃が通ったのか、血は今もどんどん流れているようだった。白馬くんは自分の手が汚れるのも気に留めず、傷口を高く上げハンカチで押さえた。血が行かないように傷口を心臓より高い位置に上げたのだと、あとでわかった。


「今はアドレナリンが出てあまり感じないかもしれませんが、じきに痛み出します。医務室へ行きましょう」


白馬くんの言う通り、あんまり痛いとは思ってなかった。心臓はまだどっどっと鳴っていてこっちの方が痛いくらいだった。左手でぐしぐしと涙を拭うと、さっきよりまともに二人を見ることができた。「…なんでこんな危ないことしたの…!」紅子ちゃんの悲痛な表情。その言葉にまた涙が溢れてきた。涙腺はもう壊れてしまったのかもしれない。ずずっと鼻をすする。


「ナイフ、取んないと、おもっ、て」
「…バカ!」
「だって、あのままだったら、しん、しんじゃってたもん〜〜…!」


そう言ってまた、子供みたいに大声をあげて泣く。本当に死ぬかと思ったのだ。そして、何もしなかったら本当に死んでた。あのとき、もうゲートを通りかかってた。犯人が解放してくれるまで捕まったままだったら、ゲートをくぐって爆発してた。絶対に死んでた。こんなんじゃ、済まなかった。
嗚咽交じりのわたしの言葉に紅子ちゃんも白馬くんも返すことができなかったようで、それ以上責めた言葉は言わなかった。ただ、わんわんとみっともなく泣くわたしのそばに、静かにいてくれるだけだった。それだけでよかった。わたしは安心して、まだ涙が止まらない。


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