自分の部屋に戻り、ぼふんとベッドに倒れこむ。ふかふかの掛け布団に顔をうずめるとそのまま眠ってしまいそうだった。体力がないからこんなに疲れたと思うのだ、大したことしてないのに。眠気と相まってふわふわした気分なのはきっと突然遭遇した事件のせいだろう。
白馬くんに連れられ山能寺というお寺に着いてから、お茶屋から響いてきた悲鳴の正体を聞いた。まさかこんな近くで殺人事件が起きたなんて信じ難かったけれど、実際本当に起きたことなのだ。服部くんは白馬くんとは別行動で他に捜査に出かけているといって、わたしたちが到着して少ししてから戻ってきた。
同じだけの情報しかないはずなのに和葉ちゃんは頭を働かせ、探偵二人の推理について行っているようだった。向かいに座っていたわたしといえば話の途中でこんがらがり、人の名前もロクに頭に入らずに終わってしまった。とにかく、犯人は今のところ店の中にいた人たちの誰かで、源氏蛍のメンバーを次々に襲う誰かと同一人物かもしれなくて、服部くんが持っていた不思議な絵は、仏像の場所を示していた、のだ。
きっとわかったことがたくさんあったのだろう。山能寺で服部くんと討論していた白馬くんはホテルまでの帰り道も事件のことを考えていたと思う。むやみに話しかけるのはためらわれたし、わたしも疲れて話しかける元気がなかった。

今まで感じていなかった、いいや感じていたのかもしれない。見ないふりしてたのかも。不安に襲われる感覚がする。

遠いなあ……。



温かいシャワーを浴びると眠気はすっかり消え、幾分か元気も出てきた。ドライヤーで髪を乾かし、部屋着で浴室から戻るとベッドに放り投げたショルダーバッグが目に入った。そうだ、清水寺でお守り買ったの、白馬くんに渡しに行こう。そう思いバッグから白い小さな紙袋を取り出す。紅子ちゃんに買ったのと違うことを確認し、ベッドに正座で座り直してじっと見つめる。

わたし、白馬くんが探偵としてお仕事してるところ、見たくて。あわよくばわたしにも何かできたらとか思ってた。そんな理由でついてきたけど、結局邪魔者だったし、頭悪いし、全然話ついてけなかったなあ……。

それでも懲りずに一緒にいたいと思うのは、わたしが白馬くんをすきだからだ。

ベッドサイドのデジタル時計はもうすぐ数字のリセットがされそうだった。明日の和葉ちゃんたちとの集合時間のことを考えたらあまり夜更かししちゃだめだ。スリッパを履き、ルームキーを持って急いで部屋を出た。まだ起きてるかな。

コンコンと軽くノックすると、すぐに部屋の中から返事が聞こえた。ですと名乗るとわずかにスリッパの柔らかい足音がして、気配が近づいてくる。ドアが開く。


「どうかしましたか?」


きょとんとした顔の白馬くんももうお風呂には入ったようだった。わずかに湿った彼の髪の毛に目が行き胸がくすぐったくなる。部屋着のラフな格好の白馬くんを見たのも学校のジャージを除けばこれが初めてだ。パーカーを羽織る見慣れない彼に自然と視線は下を向いた。


「よ、よかった、まだ起きてた」
「ええ、僕はまだ…さん、眠れないんですか?」
「あ、うん!なんか目さめちゃって」
「それでしたら折角ですし、少しお話ししましょうか」
「する!」


どうぞと微笑みドアを開ける彼にぺこりとお辞儀をして部屋に入る。当然だけれど同じ部屋の作りなので、何がというわけではないけれど、その空間は間違いなくわたしの部屋とは違っていた。ベッドは全然しわになってないし荷物も片付けられている。テーブルには京都の地図と例の絵が広げられていた。服部くんのをコピーしたのだろうか。「散らかっていてすみません」眉尻を下げて言う白馬くんに何を言うかと思いながら首をぶんぶんと振った。

テーブルを挟んだ向かい側のイスに腰掛け、白馬くんが淹れてくれた温かい緑茶を飲みながら今日の話をしていた。四人でご飯を食べているときも散々したけれど、そのときはできなかった服部くんの初恋の人の話もした。聞かなかった彼のお寺にまつわるエピソードは、和葉ちゃんは知らないのだろうか。不安が頭をよぎったけれど、すぐに払拭する。服部くんは、和葉ちゃんがすきだ。
それから話は服部くんとの捜査の話になった。和葉ちゃんには内緒にするよう言われたらしい、鞍馬山での件には驚かされた。夜だけじゃなかったのか、二人とも無事でよかったと心から思う。
今日行ったルートを辿るため白馬くんがテーブルの地図に目を落としながら話してくれる光景は幸せだと思わせる。伏せ目の白馬くんもかっこいいなあ、とただぼんやり考えるだけだ。地図には今日行った場所のチェックがされている。全部義経や弁慶にゆかりのある場所なのだろう。和葉ちゃんとの京都めぐりももちろんすごく楽しかったけれ、…ど!忘れてた!!


「白馬くん!」
「はい?」
「おみやげ!はい!」


すっかり忘れるとこだった。寄りかかっていた背もたれから離れしっかり座り直す。ポケットに手を突っ込みそれを取り出し、両手で勢いよく差し出した。顔を上げまたもや目を丸くする彼はその言葉にもまだぽかんとしているようだった。紙袋を受け取り、中身を取り出してやっと、彼はふっと目を細めて笑った。
幸守りという、清水寺では一番人気のお守りなのだそうだ。ご利益はその名の通り。白馬くんに幸せが降り注ぎますようにと思って。


「…ありがとうございます」
「ううん、…………あ、じゃあ、わたしそろそろ戻るね」


な、なんか急激に照れくさいぞ。白馬くんの柔らかい笑顔を見ていられず、途端に居た堪れなくなったわたしはそう言って逃げようとした。立ち上がるとそれに顔を上げた彼も頷いて腰を上げる。どうやら見送ってくれるらしく、わたしが入り口に向かうとあとから付いてきてくれているようだった。なんとなく、逆はあっても白馬くんがわたしの後ろに付いてくることはなかなかないので、短い距離だったけれどちょっと面白かった。ドアノブに手をかけ、彼に振り返る。それじゃあね、と言うと彼は、少しだけ済まなさそうに苦笑いをした。


「明日もおそらく服部くんと捜査することになると思うので…さんは和葉さんと楽しんできてくださいね」
「……」


遠いなあ、と、思う。こんなに近いのに。わたしは白馬くんの追う事件には及ばない。そう思うのは、自分に劣等感を抱いているからだ。床に目を落とす。「…白馬くん、」こんなこと言うのは和葉ちゃんにも悪い。わたしのために付き合ってくれてるのに。ううん彼女といるのが嫌なんじゃない。焦点はそこじゃない。


「本当は、白馬くんといたい、……」


けど、捜査応援してるから、とまでは言えなかった。ドアノブに置いた手の上に白馬くんのそれが重なったのだ。思わずびくっと肩が跳ねるけれど白馬くんは構わず距離を詰め、わたしの空いてる左腕ごと背中に手を回した。それから、こつんと、おでことおでこが当たる感触が伝わる。身体は完全に硬直していた。気配が、近い。白馬くんの顔がすぐ近くにあるとわかって俯いたまま動かせなかった。心臓がさっきの比じゃないくらい鳴りだす。目はまん丸に見開いたまま、近距離のぼやけた視界じゃ彼の表情なんてとてもうかがえない。白馬くんの顔が、近づく。


離れたと思ったら、白馬くんはゆっくりとわたしの肩口に顔をうずめた。自分の心臓が痛いくらい鼓動している。息はできているだろうか。ぎゅうと、背中に回った腕に少し力がこもる。「…さん」…は、い。


「おやすみなさい…」


なんとか必要な酸素を吸い込み、「……おやすみなさい」掠れた声でようやく返すと、白馬くんは腕を解いて離れた。しかし今の状況で顔なんて見ることのできなかったわたしは彼の表情をうかがうこともできず、俯いたまま半ば逃げるように部屋を出て行ったのだった。


(なんだ、なんだ今の……!)


隣の部屋に戻りそのままベッドにダイブする。指先まで動悸が伝わってくる。この数十秒間で寿命が半分くらい縮んだ気がする。心臓を酷使している。いっそ泣きそうだったかもしれない。
ちゅーされると思った。おでこがくっついて、それからちょっと白馬くんが角度変えたとき、されちゃうのかと思った。そんなわけないのに、そんなことを考えてしまった自分が恥ずかしい。ばか、反省しろよ、明日顔合わせるの気まずい…!

それよりええと、待って、…えっと……

何に悩んでたんだっけ、忘れた。





「……何をやっているんだ僕は…」


座り込んでしまいたくなる衝動を抑え、なんとかテーブルの前にたどり着く。顔が熱い。
キスするかと思った。許されないに決まっているのに、ほとんど衝動的に動いていた。止められてよかった。彼女を傷つけるだけでなく彼女の両親の信頼まで裏切ることになっていた。反省しろ、軽率にしていい行動じゃなかった。今回の旅行はあくまで友人としてだ。彼女をどうこうする権利はない。

散々自身を叱責しながら、空いた二つのイスを視界に入れる。さっきまでさんがいた穏やかな時間を思い出し、無意識に目を細めていた。緊張が解けていく感覚がした。

ふ、と息をつき、口を覆っていた手の力を抜く。事件についての推理は煮詰まっている。もう寝てしまおう。そう思い、僕は地図と紙を手早く片付けた。


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