紅子さんの病室に行く前に立ち会っていたMRIの検査結果が出たらしい。彼女の病室を出てすぐ看護師に呼ばれ、さんとご両親と共に診察室で風戸先生の診断を聞いていた。すぐそばには先ほどの話通り高木刑事が控えてくれている。犯人がどんな手段を使ってくるかわからない。病院も決して安全じゃないのだ。


「MRIの結果、脳に損傷は見られませんでした。やはりさんの記憶喪失は、自分を精神的ダメージから救うためのものですね」


 脳のレントゲンが貼ってあるボードの明かりを消し、風戸先生は僕らをソファのある応接スペースに促す。母親に寄り添って座るさんとは先ほど少し話したが、やはり記憶の回復は見られなかった。それでも失った記憶が短かったのもあり彼女の彼女たる仕草や表情は慣れ親しんだものであった。
 初めこそギクシャクしていたが二度目の今日会ったときには彼女の態度はすっかり柔らかくなっていた。あくまで僕のことは知らない年上の人間として認識しているけれど、二年後の自分と親しくしていたということは受け入れてくれたらしくこうして同席することも頷いてくれたのだ。


「先生、ごく自然に記憶を取り戻す方法はないんでしょうか」
「んー……一般的には、リラックスした状態のときにふっと思い出すことが多いですね」


 母親の問いかけに回転椅子に座る風戸先生が答えると、後ろのテーブルに乗っていた電話の子機が鳴り出した。「失礼、」断りを入れてそれを取る。「はい、風戸です。……はい、わかりました。電話してみます」すぐに一度通話を切り、それから左の人差し指で丁寧に番号を押す。何か急ぎの用事だろうか。
 子機に耳を当てる風戸先生から目を逸らし向かいのさんをうかがうと、彼女は診断結果を聞いてから首を捻ったままだった。自分の身に起こったこととしてピンと来ていないようだ。こうして見るとさん本人よりご両親の方が深刻に見えるほどだ。
 逆行健忘などの患者の特徴で本人の満ち足りた無関心というのを聞いたことがあるが、まさにそれだろう。彼女は二年間の記憶を失ったはずなのに逼迫した雰囲気はなく、いまいち当事者意識を持ててなかった。
 と思っていたら、唐突にくるっと頭の向きが戻った。


「あれ、出ないな…。どうも失礼しました」
「あの、わたしそのホテル行ってみちゃ駄目ですか?」
「なっ?!」
「え?本気ですかさん」


 突然の申し出に本人以外目を丸くする。風戸先生にさんははいと頷き、事件現場に行ってみたら何か思い出すかもしれませんよねと続けた。
 正直なところ、捜査する側としてはとてもありがたい。言い方は悪いが、それが一番手っ取り早いと思っていた。しかし同時に、彼女にとってリスクが高すぎる、とも思う。無理やり思い出させることが脳や心のダメージにつながるということくらい考えなくてもわかる。だから、そうなる危険のあるショック療法は友人としてはできれば避けたいことだった。


「しかしさん、あなたはあそこで間違いなく、相当のショックを受ける出来事を体験しています。それを思い出すことに恐怖はないんですか?」
「大丈夫です!」


 先生の問いかけに拳を揃えた膝の上でぎゅっと握る。「どっちかというとこのまま学校に行く方が怖いです!」きっぱりと言い切った彼女の台詞に思わず気が抜けてしまった。


「あはははは!いやあ、さんは強いですねー。この調子なら大丈夫でしょう。では退院は予定通り今日ということで」
「はい!」
「ホテルには今日行かれますか?」


「いい?」さんが母親に許可を求めたところで口を挟む。「待ってくださいさん、せめて一度自宅に帰られてはいかがですか?昨日今日と相当疲弊してると思いますし」なるべく負担はかけたくない。慣れない環境でストレスが溜まらないわけがなく、なるべくリラックスしてもらうためにも帰宅を勧めたかった。
 素直に労わる気持ちが伝わったのか、彼女は僕を見てぱちぱちと瞬きをしたあと、「それもそうですね!」と笑った。



◇◇



 退院の準備をするために病室へ戻る道のりで、さんは僕の隣に並んでいた。それがごく自然で、そんなことに安堵してしまう自分がいる。


「もしかして、明日白馬さんも来てくれるんですか?」


 うかがうように僕を見上げるさん。結局、ホテルに行くのは明日になった。仕事の関係で付き添えないから休日にしようというご両親に大丈夫だよと笑っていた彼女は、警護としての高木刑事の存在がなくとも最初から一人で行くつもりだったんじゃないかと思わせた。勇敢ともいえるが、無鉄砲。彼女のこういった危うさは、確かに京都でも感じていた。


「もちろんです。一人にはさせませんよ」
「……でも白馬さんも学校あるんじゃあ」
「学校より、あなたは僕の大切な友人です。必ず守ります」


 真っ直ぐ目を合わせて言うと彼女は少しだけ目を見開いて、それから柔らかく笑った。


「わたし、白馬さんのこと全然覚えてないんですけど、」
「……」
「でも、一緒にいてとっても安心します!よろしくお願いします!」


 満面の笑みでそんなことを言ってくれるなら。期待に応えないわけがない。「ええ」頷き、固く誓う。犯人がこの人に危害を及ぼす前に、その正体を暴くことを。そのためには現場検証は避けて通れない。さんの付き添いもあるが、それがなくとも一度ホテルに足を運ぼうと思っていた。真っ直ぐ前を見て歩いていると、「なんか、」さんがぽつりと零した。


「白馬さんって、前のわたしとただの友達って感じしないですよね」
「え?」
「まるで付き合ってるみたいです」
「……」


 でも違うんですよね?笑顔のまま僕を見上げる彼女に、返す言葉が見つからなかった。それは随分と前から、君だけでなく、間違いなく僕も思っていたことだ。
 そう、記憶があったときの君も、きっと思っていたんだろう。

 行動に移す理由も移さない理由も、少なくとも僕の中には、ない。ただ、隣にいることのできる関係であれと。それだけでよかったから。


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