「ではさん、少しでも記憶が戻ったら連絡してください」
「はい」
「先生、ありがとうございました」


 風戸先生と看護師さんに見送られ車に乗り込む。白馬さんもわたしに手を振り、自宅の車に乗り込んだ。

 白馬さんはとっても親身になってくれる人だ。今日だって月曜日なんだから学校があったはずなのに、朝から病院に来てわたしの検査に付き添ってくれていた。青子さんは白馬さんのことは高二のわたしの友達だって言ってたけど、普通そんなこと、ただの友達にするだろうか?
 最近卒業したばかりの中学の友達を思い浮かべる。あの子もあの子もあの子も、とっても仲良しの友達だったと思う。でももしその子たちが大怪我をしてしまったとして、そりゃー毎日お見舞いに行きたいと思うけど、学校を休むかと聞かれたら微妙だ。放課後行くと思う。ましてや検査に付き添ったり診断結果を一緒に聞いたりするかな。しかも彼は男の人だ。
 考えれば考えるほど、高二のわたしと白馬さんの関係が友達より近しいものに感じられる。中学でも男女仲は割といいクラスだったから男友達もいたけれど、江古田高校もそんな感じなのだろうか。昨日は黒羽さんという黒髪の男の人もいたし。それにしたってやっぱり、白馬さんは特別に思える。


 わたしも何となく他の人とは違う感覚になるのだ。白馬さんといると。


 ボーッとそんなことを考えていると、車は自宅に到着していた。お父さん運転の車を降り、一日ぶりの家に帰ると違和感を覚えた。置いてあるものがあちこち違うのだ。そこで何度目かの実感が湧く。やっぱり記憶喪失なんだなあわたし。
 記憶喪失なんて漫画みたいだと思った。本当にそんなことあるもんなんだと。正直頑張ってまで思い出さなくてもいいかなと思っていたのだけど、周りを見てるとそうのん気なことも言ってられないかもと思うようになっていた。それに先生にも言った通り、何も知らない学校に行くの不安だし。


「部屋行ってみていい?」
「ええ」


 階段を登りドアを開ける。……あんまり変わってないかな。ハンガーに憧れの江古田高校の制服がかかっているのはちょっと嬉しい。でも新品じゃないなあ、もう一年も着ればこんなものか。

 それからきょろきょろしてみるとある物に目が行った。思わず手を伸ばし、それを手に取る。白い星が下がったネックレスだ。


「これ…」
「ああそれ、あんた随分気に入ってたわよ。自分で買ったのにね」
「へー…」


 お母さんの解説に相槌を打ち元のアクセサリーケースに戻した。なんか思い出せそうな気がしたけど気のせいかな。貰い物でもないらしいし。
 次に、中学のときとは違うスクールバッグが物珍しくて中を物色してみた。するとそこには、自分の物とは思えないびっくり仰天な物が入っていたのだった。


「しゃ、シャーロック・ホームズ…?」


 え、誰かの落し物?わたしこんなの読んでたの?さすがにそれはないでしょ、縁もゆかりもない気が。


「それは白馬くんに借りたって言ってたわよ」
「白馬さん…?!」


 こんなところにも白馬さんの影が。目を丸くしたまま本に目を落とす。そりゃー、ミステリーとかは人並みに好きだけど、外国の本を読むほど通かと聞かれたら首を振る。シャーロック・ホームズだって存在は知ってるけど読みたいと思ったことはない。高校に入ってハマったのかなわたし。

 あ、そうだ白馬さんは高校生探偵なんだっけ。もしかして白馬さんはシャーロック・ホームズがすきなのかもしれない。それで、ええと、わたしが本を借りるということは……。

 ……。ふうと息をついて、傷をつけないように大事にバッグにしまう。やっぱりわたしの予想は当たってたんじゃないか。

高校二年のわたしは白馬さんのことがすきだったのかもしれない。



◇◇



 わたしが記憶を失った事件というのは米花サンプラザホテルという建物の十五階、それもトイレで起きたらしかった。トイレなんかで一体何がと思わず聞いたけれどそれにはお母さんたちは答えてくれず、下手くそにお茶を濁された。青子さんに聞きたかったけれど彼女は学校に行っているし、メールで聞く内容とは違う気がするし、自分から電話をかけるには立場が微妙すぎた。だから白馬さんに聞こうと思って今日会うのを心待ちにしていたのだけれど、現地集合したらしたで彼はどうも深く何かを考え込んでいるようで話しかけづらかった。

 でも考えてるのは多分わたしが知りたい事件のことだろうから聞いた方がよかった、と思ったのは十五階に着いたあとだった。エレベーターを降りた正面、受付の脇に伸びるその通路の入り口には立ち入り禁止の黄色いテープが貼られていた。それを見た瞬間、全身がぞわりと粟立つのを覚えた。


「……」
さん?……大丈夫ですか?!」


 冷や汗をかく。指先が冷たい。気持ち悪い。
 心配そうにわたしの顔を覗き込む白馬くんを目だけで見上げ、それから、ぎゅっと作り笑いをした。


「冷房効き過ぎてお腹痛くなっちゃいました。トイ……下のお手洗い行ってきます」


 階段はすぐ近くにあった。誰の返事も聞かずに駆け出しタンタンと降りていく。十四階も上と同じ作りだったからトイレの位置はすぐにわかったけれど、同じ作りだからこそ冷や汗は止まらず、でも駆け込まずにはいられなかった。無人のトイレの一番手前の個室に入り、ドアも閉めずに洋式の便座に手をつく。


「……お゛えっ…」


 胃からせり上がってきたものを吐き出す。一緒に涙も出てきた。気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い。吐瀉物を見ていたくなくてすぐに水を流すがその間にまた吐いてしまう。変な物を食べたからじゃない。なんでかわからないけれど気持ち悪いのだ。ぼろぼろと生理的な涙が零れる。


(な、なにか、なにかを…)


 チカチカ光っているのは眼前なのか頭の中なのかわからなかった。けれどわたしは確かに、何かを思い出せそうだった。でもそれを拒絶している。

 身体が拒否反応を示すくらいの何かがあったんだということだけはわかった。しばらく荒い呼吸を繰り返したあと、汚いけれど床にペタンと座り込んでしまう。頭がぼんやりとする。体調を崩しそうだ。


「はあ……」


 天井を見上げるけれど、やっぱり思い出せない。ただ漠然と、何かがあったことだけはわかった。誰かがそばにいたような気もする。
何かわたし、すごく大事なことを忘れてるんだ。わからないけど、わたし、もしかして、


 誰かに大変なことした?


 こんなことしてる場合じゃない。のん気に過ごしてちゃだめだ。思い出さないと。わたしの二年間のこと、事件のこと、思い出さなきゃ。
 でもどうやって?あの事件現場に行く、無理だ。あそこには近付きたくない。無理だ。でも早く思い出さないと。

 口をゆすいで手と顔を洗ってトイレを出れば、外で待ってくれていた刑事さんには何もバレなかった。「お腹痛いの治りました?」「はい、すみません」そう言って階段を登る。なんとなく心配されたくなかった。


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