下の階へ駆け降りていくさんを高木刑事に頼み、僕は先に十五階の捜査を始めることにした。立ち入り禁止のテープをくぐり、使用禁止になっている女子トイレに足を踏み入れる。銃で弾かれた蛇口や床の血の跡はまだ事件当時のままだった。

 昨日のうちに芝刑事射殺事件の捜査資料は見せてもらった。その中で気付いた違和感。写真に写る芝刑事が持っていた警察手帳が、本来胸ポケットから出したときの向きと逆だったのだ。普通だったら警視庁の文字が本人から見て逆さになるはずなのに、芝刑事の場合読める向きになっていた。あれはもしかすると、犯人が芝刑事を射殺したあと持たせた、偽装されたダイイングメッセージなのかもしれない。
 となると犯人が警察関係者であるとの推理も犯人のミスリードと考えられる。少なくとも芝刑事はそんなダイイングメッセージを残しておらず、奈良沢刑事が示したのも警察手帳ではないかもしれない。容疑者は一から考え直す必要がある。

 トイレを出、通路を歩く。そもそも、あのときホテルに残っていた全員に硝煙反応が出なかったという事実は、イコール全員が犯人でないといえるのか。硝煙反応を出さずに拳銃を撃つことは本当に無理なんだろうか?


「……ん?」


 通路のすぐ右が受付だ。その脇には傘立てがある。そこには今何もないが、おととい受付付近でさんたちを待っているとき、ここに一本の傘が差してあったのを思い出した。普通のビニール傘だったが、あの日は晴れていたのにそれだけポツンとあったから覚えていた。今はないから誰かの私物だったのだろう。が、そうなると雨でもない日になぜ?
 いや、本来ならそんな理由は知る由もないが……事件の起きたこのタイミングが気になる。もし本来の使途で用いるためでないとしたら……、! もしかして!


「すみません、おとといここに傘を忘れてしまったんですが預けられてませんか?」


 受付の女性に問うと、彼女は愛想のいい笑顔を見せた。


「どんな傘ですか?」
「普通のビニール傘なんですが」
「ああそれでしたら、」


「これですか?」意外と早く出されたそれに内心動じるが、努めて笑顔を維持する。「ありがとうございます」駄目元で聞いたのだがまさか残っているとは。あらかじめしておいた手袋で受け取り、またトイレまでの通路に隠れ傘を広げる。……やはり。

 ビニールの部分に丁度拳銃を突き刺したような穴が空いていた。この状態で撃てば発射残渣から自分の身をガードできるだろう。ということはこの方法を使える、パーティに来ていた全員が容疑者となる。
 犯人はこれを処分しようとは思わなかったのだろうか。いや、確かにおとといのあの中で持ち去るのは難しいし、一日経てば受付に回収されるだろうから顔を覚えられてしまう危険性が高まる。たとえこれが見つかり犯行に使われたものだとわかっても犯人特定には至らない。放置してホテル側で処分してもらうのが一番都合が良かったのだろう。

 ……個人的に友成真さんの疑いは薄まるな。警察は今も彼を指名手配して行方を捜しているようだが。僕が見た限り彼と仁野環さんは事件後あの場にいなかったのだ。
 犯人はわざわざ硝煙反応を出さないためのトリックを使っている。事件後すぐ逃走しようとしていた人間がそんなことをするだろうか。そう考えると犯人は硝煙反応の検査を受けた人の中にいる可能性が高いと思う。また、傘を放置していくところから自分の犯行にかなりの自信があるか、そうでなければ警察を軽んじている人間だと考えられる。

 念のため発射残渣と指紋を調べてもらうか、と傘を閉じたタイミングでさんと高木刑事が戻ってきた。彼女を見た瞬間、眉をひそめる。


「顔色が悪いようですが大丈夫ですか?」
「はい。何でもないです」


 笑っているけれど硬い表情だ。一目見てわかるほど顔色がよくない。近寄り、額に手をやると、そこはじんわりと熱を持っていた。


「発熱しています。今日のところは引き上げましょう」
「……え、な、」


 自覚していないのだろうがやはりここはさんにとって精神的によくない場所だ。それを無意識の部分で感じ取り拒絶している。一応何か思い出したことがあるかと問うが、それには勢いよく首を振った。


「あの、ごめんなさい…」


 高木刑事の車に乗り、後部座席で縮こまる彼女がそう謝罪する。何に対して謝る必要があるのだろうか。来たときとまるで違う様子のさんの横顔を覗き込むが、何か不安に襲われているということはわかってもそれ以上は追求できなかった。彼女を連れてくるんじゃなかったなと内心後悔する。荒療治はこれからもよした方がいい。



◇◇



 米花薬師野病院へ行き、念のため風戸先生の診察を受ける。体調不良はもう治まったようだが、やはりどこか違和感のある雰囲気のまま、さんは先生の質問に答えていた。


「では、ホテルに行って少し気分が悪くなったんですね」
「はい…」
「次行くのはもう少し時間を置いてからの方が良さそうですね」
「は、はい」
「何か思い出せましたか?」
「いえ、何も」


 カルテに書き込んでいく右手を眺めながら、ふと、犯人が左利きであることを失念していたなと思った。(……?)一瞬湧いた違和感に眉をひそめるが、とにかくパーティ参加者の中で左利きの人間を探すよう伝えなければと思考を戻す。

 病室を出、そのことを高木刑事に伝えると彼は少し席を外して目暮警部に電話をしに行った。待合席に二人で並んで座る。隣のさんが、膝の上で手を強く握りしめているのに気が付いた。


さん?どうかしましたか」
「え、い、いや」


 サッと逸らされる視線。やはりさっきから様子がおかしい。何かに焦ってるように見える。ホテルに行くまではこんな風ではなかった。何かあったのか、それで僕には言えないというのか。胸がざわつく。つい強く肩を掴んでしまう。


「しかし、」
「何でもない!」


 ハッと息を飲む。彼女の声は、ざわついた待合室にはそこまで響かなかった。しかしそれは間違いなく、拒絶の声だった。すぐ我に返った彼女は自責の色を浮かべる。目は合わない。


「……です、ごめんなさい…」
「いえ…」


 肩から手を離し、拳を作る。


(クソッ…)


 僕まで焦ってどうするんだ。


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