個室のドアを横にスライドさせ中に入ると、奥でベッドに座っているさんと目が合った。ほっとしたのも束の間、それはすぐさま逸らされた。そんなことだけだったが、言いようのない不安に襲われた。 「……さ、」 僕のあとから黒羽くんや警部たちがやってきたため、押されるようにベッドの方へ歩み寄る。僕らが近付くにつれてさんの方も気持ち奥の方へ身を引いているように見えた。表情はさっき目が合ったときと変わらず困惑した様子だ。僕らを一瞥し、そしてそばに立っているさんの母親を見上げる。まるで縋り付くかのように。 「なんだよ青子、べつに変じゃねーじゃん」 「で、でも快斗、ちゃん、青子のこと…」 「ねえお母さん、ほんとにこの人たち誰…?お母さんの知り合い?」 どくんと心臓が跳ねた。目を見開く。聞き間違いか、今のはさんの声だったか。嫌な予感が最高潮に達する。呼吸もおろそかになっている気がする。周りの黒羽くんや警部たちも、予想外のさんの発言に言葉を失っていた。 「こ、これはまさか…」 「この子、どうも高校生からの記憶がないみたいなんです…」 目暮警部にさんの母親が言いづらそうに答える。それに首を傾げるさんはそれからまたちらっとこちらを見るが、その視線はどこか懐疑的だった。警部たちを見る目と同じように僕を見、それからすぐ隣の黒羽くんや青子さんに移っていく。視線からは何も伝わってこない。彼女は僕に何も言ってこない。それだけでわかる。 さんは、僕のことを何一つ認識していなかった。 「それでは、今日何があったか覚えていますか?」 心療科の当直がいなかったため至急風戸先生が呼ばれた。病室のイスに腰掛け風戸先生と向かい合うさんは知らない人たちに見られて落ち着かないというように身体を固くさせながら、彼からの質問に答えていた。 「今日は一日中家にいました…」 「今日は何月何日何曜日でしょう」 「四月二日火曜日です」 「歳はいくつですか」 「十五歳です」 「高校は春からどこに進学予定でしょうか」 「江古田高校です」 「では、自分が今、本当は高校二年生だと聞いてどう思いましたか?」 「……始めは言っている意味がわからなかったんですけど……でも知らない間に髪の毛が伸びてたので…わ、わたし記憶喪失なんですか?全然そんな感じしないんですけど」 「…そうですね」風戸先生は曖昧に微笑んだ。 逆行健忘。突然の疾病や外傷によって、損傷が起こる以前のことが思い出せなくなる障害の一つ。病院の第四会議室という小部屋で、風戸先生と向かい合って話を聞いていた。長テーブルとイス以外にはホワイトボードしかない簡素な部屋だ。さんのご両親の他に、頼んで同席することを許してもらった僕が並んで席に着き、後ろでは目暮警部と白鳥警部も聞いている。 「ただし、お嬢さんの場合、目の前で佐藤刑事と小泉さんが撃たれたのを見て、強い精神的ショックを受けたためと考えられます」 「それで、娘の記憶は戻るんですか…?」 「今の段階では何とも言えません。ただ、失った記憶はこの二年間のみですので、普通の生活には支障ないと思われます」 「そうですか…!」 「ですがとりあえず明日MRIを撮ってみますので、今日だけは入院して頂きます。そのあとのことは明日決めましょう」 「はい。ありがとうございます」お辞儀をし、ご両親は風戸先生と共に会議室をあとにする。さんの病室へ戻るのだろう。 「ごめんなさいね白馬くん」 「…え?」 退室する間際、さんの母親が僕に謝罪を述べた。謝られる意味がわからずそんな間抜けた返事をしてしまう。 「と仲良くしてくれてたのに、あの子忘れちゃってねえ…」 「そんな、」 「すぐ思い出せるといいんだけど…また仲良くしてやってくれると嬉しいわ」 「、もちろんです。僕もさんの記憶が一日も早く戻るよう力を尽くします。なので…」 言葉は続かなかった。なので、何だというんだ。近くにいて彼女を守ることもできなかった男を見限らないでほしいと懇願するのか。図々しいにもほどがある。 母親はどこかわかったかのように笑みを浮かべ、父親に促され会議室を出て行った。立ち尽くす僕は彼らと入れ替わりで入ってきた高木刑事と千葉刑事に気付いてようやく我に返った。そうだ、悔いている暇はない。彼女の記憶を取り戻すためにも犯人究明は避けて通れない。 「佐藤さんと小泉紅子さんの手術終わりました。小泉さんの方は明日にも意識は戻るようですが、佐藤さんの方は…弾はなんとか摘出されましたが、助かるかは微妙だそうです」 「…! そうか…」 千葉刑事の報告に目暮警部は表情を険しくする。佐藤刑事の方は彼女の精神力に懸けるしかないようだ。 さんの方は記憶をなくした原因はさきほど風戸先生が言った通りでまず間違いない。奈良沢刑事の件で明らかだったように、彼女は事件現場の耐性がない。そのうえ撃たれたのは紅子さん、彼女の一番の友人だ。その彼女が目の前で撃たれたのはさんにとって相当な心的ストレスだっただろう。 「…千葉刑事、懐中電灯の指紋は取れましたか?」 「ああ。でもさんの指紋しか見つからなかったよ」 「え?」 「僕たちはてっきり、懐中電灯を取ったのは佐藤さんだと思ったけど、実はさんだったようです」 「だとすれば……さんは佐藤刑事と紅子さんが撃たれたのは自分のせいだと思ったかもしれません」 「じゃあ、そのショックのためか!くんが記憶を失ったのは!」 それならば、失った記憶が高校生活の二年間であったことは納得がいく。さんは、自分のせいで撃たれた紅子さんと出会った、江古田の記憶を封じ込めたのだ。ここに来て現実を突きつけられたような気分になる。心臓が重すぎて、肘をついた手を組んで項垂れてしまう。紅子さんが撃たれた。さんが記憶を失った。そうなった原因は、……いや、あの人だけのせいではないはずだ。さっきの白鳥警部のあの口ぶりからして確実に、この事件は裏がある。それを僕は知ることができていないのだ。手の甲から顔を上げ、背後に立つ彼らにゆっくりと振り返る。 「目暮警部、いい加減教えてください」 「……」 「警察は何を隠しているんですか」 「……犯人は我々の手で必ず逮捕する。君には、」 テーブルを強く叩く。警部の声を遮った。苛ついているのか。自覚するが頭を冷やそうとは思えなかった。そうだ、僕は苛ついている。ここにきてまだ隠そうとする警察に腹を立てている。身体に充満しているのは怒りだけじゃない。情けない。はがゆい。苦しい。いくつもの感情がない交ぜになりどうにも胸がむかむかして仕方がなかった。周りの警部たちが驚いているのはわかったが取り繕う余裕もなかった。テーブルに開いた手を強く握りしめる。 「…僕が必ず犯人を……」 頭に血がのぼっている感覚。それでも目を瞑ると、僕を見ない彼女の眼差しと目が合うのだ。 |