光のもやの向こうは驚くべきことに夜の住宅街が広がっていた。一目見て日本の景色じゃないことがわかり、建ち並ぶレンガ造りの一軒家を見渡しながら、ここがロンドンだということを全身で直感した。
最後尾の菊川くんが通り抜けるとゲートは姿を消し、後ろにそびえる民家の門となった。辺りは等間隔で設置されている街頭のおかげでかろうじて明かりが確保されているけれど、周りの人の顔を確認するのも一苦労の明るさだ。レンガの家々はオシャレなヨーロッパの外観そのままだったけれど、身にまとわりつくような不気味な雰囲気が漂っていた。思わず身震いしてしまう。


「ここがロンドン?霧すげーな…」
「なんか思ってたより薄暗いっつーか、イメージと違うよな」


諸星くんや滝沢くんの会話に白馬くんが苦笑しながら説明する。「この時代のロンドンの霧は、石炭や石油を燃やして出る煤煙が霧と融合して出来たスモッグなんです。華々しいイメージとはかけ離れたものなんですよ、残念ながらね」へえ、と感嘆の声を発する。スモッグ、ってことはよく夏に放送で聞く光化学スモッグと同じなんだろうか。だとしたらあんまり外にいるのって良くないんだよね、あ、でも仮想空間だから、具合が悪くなるとかはないのかなあ。


「さて、まずは情報収集からですね。ジャック・ザ・リッパーの事件を調べていきましょう」
「あら、どうしてもう事件が起きてるなんてわかるの?」


白馬くんの提案に頷こうとしたところ、紅子ちゃんの鋭い指摘が入った。確かにそうだ。ジャック・ザ・リッパーの犯行は、これから行われるかもしれないのだ。目を丸くしたまま見上げると、白馬くんは、ああ、と恥ずかしそうに肩をすくめた。


「僕たちは犯人が「ジャック・ザ・リッパー」だと知っていますから…解決すべき事件が決まってる以上、現時点で犯行が行われてるのが定石かと。それに現実では、ジャック・ザ・リッパーの犯行だと確実視されている一連の事件は二ヶ月以上に渡っているんです。このゲームのストーリーが史実に沿っているかはわかりませんが、時間の制約上一、二件はすでに起こっているだろうと……ですがすみません、決めつけるのは早計でしたね」
「いえ?理由があるならいいのよ。今回も頭脳はあなたなんだし。…それにしても、百年以上も前の事件なのに詳しいのね」
「有名な未解決事件ですしね。それにあの時代は…」


突如、女の人の甲高い断末魔が響いた。全員に緊張が走る。最初に動き出したのは、白馬くんだ。


「白馬くん?!」


左方向へ駆け出した白馬くんを追うようにわたしたちも走り出す。民家を右折し見えなくなった白馬くんの声が、「ジャック・ザ・リッパー!」曲がってすぐに聞こえた。白馬くん越しに、倒れた女性とそばにしゃがみ何かをしている細身の男性の姿が見えた。緊張で固まる。
マントをつけた男性は白馬くんに気付くと左方向へと逃走した。追いかけようとした白馬くんはしかしすぐに追いつけないと判断したのか足を止め、代わりに仰向けに倒れた女性へと近づこうとした。


「Oh my god!!」


「?!」いつの間にいたのか、通りには男性の姿があった。キャスケット帽を被る彼は慌てたように大声を上げている。


「It's Jack the Ripper!Call the police!」


白馬くんは苦虫を噛み潰したように顔を歪め、わたしたちのいる路地へ駆け戻った。わたしは怖くて倒れてる女性のほうは見れず、逃げるようにキャスケット帽のおじさんを凝視していた。おじさんの呼びかけで次第に人が集まってきて軽い人だかりができる。彼らは口々に何かを話してるみたいだったけれど、音量的にも言語的にも聞き取れなかった。…ここでわたしはようやく、この舞台における根本的な問題に気が付いたのだった。


「全部英語じゃねーか」
「全然わからないわね…」


通りを覗き込みながら滝沢くんたちが珍しく弱音を吐いている。小学生なんだから無理もない、わたしだって、この世界の人たちが全員英語を話すんだと思うと気が遠くなる。


「Hey,what's going on?」


女性がマンションの窓から顔を出して下へと問いかけている。多分、何があったのって聞いてる。簡単な英語なら聞き取れるけど、もちろん話せないからコミュニケーションが取れない。この先を想像すると真っ暗になる。薄ら寒い空気に身震いがした。


「また犠牲者が出たぞ!」
「これで三人目だ!」


あれ? パッと顔を上げると、正面に立っていた白馬くんも目を丸くして人だかりを見ていた。…日本語になった?まるで字幕なしの洋画が、突然吹き替えになったみたいに、わたしの耳には彼らの会話がしっかりと入ってきたのだ。


「設定を変更したんでしょう」
「ノアズ・アークが?」
「それはわかりませんが…僕たちの全滅を望んでいる人工頭脳が、わざわざこんな親切なことをするとは考え難いですね」


体勢を変え家の陰に隠れながら人だかりの様子をうかがう白馬くん。人工頭脳?突然出てきたニューワードに首を傾げてしまう。ノアズ・アークがそれってこと、だよね。ええと…。少し考えてみたけれど人工頭脳というものが何なのかよく知らないわたしはすぐに行き詰まり、考えてもどうしようもないことだろうと思考をシャットダウンした。とにかく、日本語になってよかった。英語のままだったらいよいよこの先全部白馬くんに寄りかかることになってた。
寄りかかった壁の冷たさがリアルに伝わる。人だかりをどこか別世界のように見ていたけれど、間違いなく今わたしの目の前で起きていることなのだ。人と人の隙間からわずかに見える血まみれの女性の姿からすぐに目を背ける。


「ここにいてもわかることはなさそうですね…」


惜しむように呟いた白馬くんに、本当は今すぐにでもこの場を離れようと伝えたかった。この空気は怖い。どこか明るいところへ逃げたかった。早く夜が明けてほしい。


「はい、どいてどいて!」
「下がってください!」


口を開く前に、通りの右手から二人の男性が近づいてきた。人だかりを掻き分けるように女性へ歩み寄る彼らは紺色の帽子と同色のかっちりした制服を身にまとった出で立ちから、ある職業が連想させられた。「警察官…?」わたしの呟きに白馬くんが頷く。白馬くんは依然真剣な顔つきで様子をうかがっていた。さっき女性に歩み寄ろうとしたのは、きっと遺体の状態を見たかったからじゃないだろうか。なのに他の人が来て、うっかり疑われちゃいけないからって戻ってきたんじゃ…。不安になっておそるおそる見上げる。白馬くん、これからどうするんだろう。


「おい、すぐにレストレード警部に連絡だ!」


警官の一人が片方に指示を出したようだ。瞬間、目を瞠る白馬くんの横顔が見えた。


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