「白馬くん、ちょっと」


紅子さんに声を掛けられたのは会場が二度目の暗転をしたのちの自由時間だった。サプライズゲストと称された沖野ヨーコのライブが終わったあと、僕とさんは小腹を満たすため軽食を取りに行っていた。紅子さんと園子さんの分も皿に乗せ二人の待つバルコニーへ戻ると、どこか神妙な表情の彼女が歩み寄ってきたのだ。立ち止まり、柵に寄りかかる園子さんの元へ歩いていくさんを視界の隅で追う。彼女はこちらに目を向け、何の話か気になっているのがうかがえた。それに気付いていないわけがない紅子さんは僕をまっすぐ見据えるのみだ。ただならぬ雰囲気に眉をひそめる。一体何があったのだろうか。


「パトカーが入ってくるのが見えたわ」
「……」


パトカー、ということは何か事件が起こったのか?同じことを考えていたのだろう、紅子さんの表情の意味は合点がいった。「わかりました、少し見てきます。三人はここで」「ええ」短く返事をした彼女に料理の乗った皿を預け、すぐさま踵を返す。もともとこの時間のバルコニーには僕たちしかおらず、パトカーの存在に気付き取り立てて騒ぐ人はいないようだった。
バルコニーから室内に入り、一度会場を覗く。明るい会場内は先ほどと変わりはなく、来場者が各々軽食やアルコールを嗜みながら時間を過ごしていた。事件現場はここじゃない、となると…。廊下を小走りで駆けエントランスへ向かう。思った通り、すぐに知り合いの刑事を見つけることができた。


「千葉刑事」


捜査一課の千葉刑事だ。彼らの管轄ということは、殺人か。駆け足でどこかへ向かっていた彼を呼び止め事件の概要を伺うと、地下の一室で殺人が起きたとの通報を受けたという話を聞くことができた。彼は目暮警部の指示でこの施設の出入り口を封鎖するよう掛け合うのだそうだ。「そうですか。ありがとうございます」それだけを聞いて礼を言い、その場をあとにする。

地下室への道のりで何人かの警官とすれ違ったが名乗れば特に咎められることはなかった。理由は警視総監の息子という目こぼしか探偵という信頼か。はっきりしないが、今は現場に通されればそれでいい。辺りをうかがいつつ駆け足で向かうが、最低限の明かりしかない地下は暗く、人の目もほぼゼロに等しかった。今でこそ警察官の姿があるが、常時はおそらく誰も歩いていないだろう。
四角錘台に張り出した緑色の小ランプが地下にある部屋の存在をかろうじて主張していた。ドアには目の高さの位置に[樫村ルーム]のネームプレートが付けられている。…樫村、確かコクーンのゲーム開発責任者の名だったはず。思い、この扉の向こうの光景を予想しながらノックをする。「はい」聞こえた返事にドアノブをひねる。


「おお、白馬くんじゃないか。君も来ていたんだね」


部屋の中には、目暮警部の他に白鳥警部と男性スタッフが一人いた。「……」そして、正面の回転イスに、心臓から血を流し絶命してい被害者が。力なく俯いているためはっきりとは言えないが、彼はセレモニー前、秀樹くんたちを注意していた男性ではないだろうか。ダークブラウンのスーツとオールバックの髪型には見覚えがあった。


「彼は…」
「ゲーム開発責任者の樫村忠彬氏だ」
「…そうですか」


やはりこの人物が。歩み寄り、遺体に触れない形で観察する。心臓を一突き。凶器は見当たらない。床には血を拭ったティッシュが落ちているため、犯人が持ち去ったのだろう。よほど大事な凶器なのか、それとも残しておくと持ち主がわかってしまうような物かもしれない。
床にばら撒かれたティッシュ以外、部屋は地下室の割に綺麗な印象を受けた。ゲームシステムの管理も担っているのか、十畳程度の一室は両脇の壁に機器類が設置されており、正面の壁のみアクアリウムになっていて熱帯魚が何匹も泳いでいた。壁に沿ってコの字にテーブルが備え付けられ、被害者の座るイスの前には一台のコンピューターが置いてある。


「それにしても、開発責任者がなぜ、ここのような地下室で?」
「はい…主任は人の出入りが頻繁なところは集中できないからと、一人ここへ…」


白鳥警部とスタッフのやりとりに耳を傾けつつ、視線はコンピューターへ移す。「……」見てみるとコンピューターの手前に置かれたキーボードのうち、RとTとJに血の跡があった。思わず顎を引く。テーブルの縁に擦るように血が付着しているところからして、被害者のダイイングメッセージか。


「あの…不可解なことが一つありまして…。ハードディスクのデータが、すべて破壊されているんです」
「データが?」


一旦キーボードから目を離し彼らに身体を向ける。「破壊したのは犯人で間違いないだろう」「しかし今さら破壊することに何の意味が…?」考え込む二人の警部の疑問ももっともだ。コクーンはもう完成している。そのあとでもハードディスクを破壊することで得るメリットがあるということだろうか。となると、犯人の犯行動機はゲームに関連していないかもしれない。怨恨の可能性もありそうだ。思いながら、首をひねり目を落とす。

(R、T、J…)

三つのローマ字が示す意味が何かわかれば犯人に近づけるはずだ。声には出さず、脳内で思いつく限りの組み合わせを並べていく。三つだけでは英単語にならない。何かの略と考えるのが自然だろう。JRT、JTR、……。


「あの、もうすぐゲーム開始の予定時刻なのですが…」
「ああ、そうですな…申し訳ないですが中止にして頂きたい。どなたに掛け合えばよろしいですかな」
「でしたら…」


スタッフと目暮警部のやりとりを耳に、僕はなぜか工藤先生との会話を思い出していた。ゲーム、推理要素、「きっと楽しんでもらえる舞台だと思うよ。君にも特にね」あの台詞。………。
思わず目を瞠っていた。……まさか、あの言葉の意味は。その可能性に至った瞬間、僕は踵を返していた。


「目暮警部、ゲームは予定通り開始させてください!」


言い捨てるようにすぐさま部屋を飛び出す。「お、おい白馬くん?!」警部の呼び止めを無視し、地下の廊下を駆けて行く。まさかこれが役に立つとは。胸に付いたバッジの存在を確かめ、前を見据える。これがあれば必ず、事件を解く鍵が見つかるはずだ。と、向かいから駆けてくる男性の姿が目に入った。


「工藤先生!」
「白馬くん」


スタッフと共に駆けてきた先生は事件を聞きつけてきたのだろうか、この先で待つ事情を知っている風だった。「工藤先生、」もちろんお互い立ち話をするつもりなんてない。だが、一つだけ確認しておきたいことがあった。


「先生、あなたが手がけたシナリオの舞台は、100年前のロンドンですか?」


100年前、19世紀末のロンドンといえば、あの世界的に有名な名探偵の生きた時代だ。その理由で僕が気に入っているのを先生は知っていた。だからああ言った。
確認をしたかっただけで、確信はあった。先生自身も同じ作品を好んでいることを、僕は知っていた。


「…ああ、そうだよ」


先生の肯定を受け取るなり、僕は再び駆け出した。





会場から移動していく来場者の流れを辿っていくと別のホールに到着した。入ると手前が観客席になっており、正面奥のステージ上にはコクーンが等間隔にいくつも並んでいる。雛壇のように段差のあるステージは演奏会を連想させるが、その無機質な光景にはどこか薄気味悪さを感じた。
僕が到着したのとほとんど同時に入場が始まり、体験バッジをつけた少年少女が金属探知機のようなアーチ型のゲートをくぐっていく。それを横目に辺りを見回すと、すぐにさんたち三人の姿を見つけることができた。何も連絡をしていなかったが、彼女たちも移動していたようだ。ホッと胸を撫で下ろし、駆け寄る。


さん」
「あ!お疲れさま白馬くん!…ど、どうだった…?」
「…殺人でした」


途端に強張る表情に今度は胸が痛くなる。伏せるべきだったか、後悔の念に襲われるが、うまい誤魔化し方は思いついていなかった。神妙な表情を浮かべる紅子さんと園子さんを一瞥し、目を伏せる。


「そ、そっか…」
「…不安にさせてすみません。しかしどうやら、ゲームの中に犯人を突き止める手がかりがあるようです」
「どういうこと?」


問うた紅子さんに目を向けるが、不甲斐ないことにそれ以上のことは言えなかった。


「詳しくはわかりませんが…とにかく僕は行ってきます」
「待って!わたしも行くよ!」
「え?」
「ね、紅子ちゃん!」
「ええ。せっかく鈴木さんに譲ってもらったことだしね」


よく見ると二人の左胸にはコクーンの体験バッジがつけられていた。園子さんも何も気にしてないというように「いってらっしゃい」と手を振っており、どうやら僕が席を外している間にそういう話でまとまったらしかった。僕から口を出すつもりはなかったので、それには了解の意を返すのみで、ふっと息をつく。…さんたちにはゲームを楽しんでもらいたいな。当然のようにそう思うので、やはり事件のことはどうにか誤魔化すべきだったと後悔してしまう。彼女に礼を伝える二人が僕に振り返る。「頑張ろうね白馬くん!」拳を作るさんに力なく笑い、三人で入場ゲートへと足を向けるのだった。


「それで、どうしてこのゲームに手がかりがあると思ったの?」


50機のコクーンのそばには一人ずつスタッフが立っていた。そこへ目掛けて走っていく小学生の少年たちに何回か追い越されながら、事件について二人に話した(事件のことは気にしなくていいと伝えたが、こちらも当然のように「足引っ張らない程度に手伝うよ」と返されてしまった)。その中で挙がった紅子さんの疑問に答える。


「被害者がパソコンのキーボードにJTRと残していたからです」
「ダイイングメッセージってやつね」
「JTR…何かの略?」
「はい。それは、僕たちがこれから行く舞台に出てくる登場人物の頭文字です」


二人が目を見合わせ、考え込んでいるのがわかる。僕も事前に工藤先生から舞台に関するヒントを聞いていなければ思い当たったか定かではない。それでも実際に聞けば知らない人も少ないだろう、彼もまた世界中に名を馳せる有名人だった。名誉なことではなかったが。

二人から目を離し正面を見据える。コクーンが、物言わぬ顔で僕たちを待ち構えていた。イスに力なくもたれる被害者が思い起こされる。彼の無念、最後の意思、犯人はなぜ彼を殺害したのか。「聞いたこともあるかと思います」


「19世紀末のロンドンに実際に存在した殺人鬼、ジャック・ザ・リッパー」


おそらくこれから対峙するだろう犯罪者。


6│top