一瞬何が起きたのかわからなかった。焦ったジャック・ザ・リッパーが自身の胴体に巻きつけたロープを切ろうと僕を拘束していた手を離してようやく頭が働いた。働いたところで、彼がロープに引っ張られ列車から落下していくのを見ていることしかできなかったが。追うように線路の下を覗き込むも、ジャック・ザ・リッパーの先にいるはずの彼女は、眼下に広がる暗がりに紛れもう見えなかった。


「………」


四つん這いの態勢から膝を折り座り込む。息が上がっていた自分に初めて気付く。それはさっきまで首を絞められていたせいではあったが、目の前で起きたことを処理しようとすると心臓が圧迫されるようだった。額に汗の粒が浮き出ている。輪郭を伝うように落ちたそれを拭う余裕もなかった。
直接は見えなかったが、間違いなくさんが身投げをしたのだろう。あそこから偶然落ちてしまったとは考えられない。おそらく彼女は、絶体絶命の状況を打開しようと、自分諸共ジャック・ザ・リッパーの排除を選んだのだ。無謀な賭けではない。理に適っているとも思う。実際に僕はさっきまで、彼のナイフに刺されてゲームオーバーになる寸前だった。


「……クソッ」


拳を太ももの上で握り締める。無意識に歯を食いしばっていた。また、彼女の無鉄砲な行動に救われてしまった。二度とさせまいと誓ったにもかかわらずこれだ。自分が不甲斐なくてたまらない。自殺まがいの行動を決断したさんの心情を思うと胸が痛い。片手を胸にやり、ワイシャツを握りこむ。

不甲斐ないのはそれだけじゃない。僕は無人の機関室を知ってからずっと、目下の問題が解決できない状況に焦りを覚えていた。


「おい、探くん」


秀樹くんの声に顔を上げる。先ほどジャック・ザ・リッパーに突き飛ばされていた彼はなんとか戦線復帰したようだ。すぐに目を逸らし、これでもかと上がったスピードで移り変わっていく景色に顔を歪めた。……ここからどうする。ジャック・ザ・リッパーを消したからといってゲームクリアにならないのは何となく察せる。おそらく僕らがこのまま列車ごと最終駅に突っ込んだら間違いなくゲームオーバーだ。列車を止め、差し迫った難から逃れなければならない。そこまではわかっている。
先ほど踏みつけられたせいで痛む左手を伸ばし、そばに放り投げられていた拳銃を拾い上げた。僕の武器はこれだけだ。たった三発残った拳銃で、何ができるというんだ。ジャック・ザ・リッパーから何かヒントを得られるかと思ったがそれらしいことはなく、知れたのは彼の目的と、あと数分で最終駅に到着することくらいだった。


「なあ、このままじゃ俺たちゲームに勝ったって言えねーぞ」
「…ええ。しかし…」
「………」


見下ろす秀樹くんの視線が痛い。その意味がわからず、彼を見上げた。思った通り彼は僕を辛抱ならないと言わんばかりに眉をひそめて見据えていた。「諦めんのかよ…」声は震えている。疑念や落胆ではなく、純粋なまでの僕への怒りだった。なぜ君が。ここに来て予想外の反応に、伸びてきた両手を避けることもできず胸ぐらを掴まれた。


「おい!俺たちは四十八人の命預かってんだぞ!みんなの気持ち踏みにじるつもりかよ!!」
「………君は、何を」


言われていることが理解できない。いや、意味はわかる。だが、それをなぜ、目の前のこの人物に言われているのか理解できなかった。まさか、僕の推理が間違っているのか?どこで問い詰めるべきかうかがっていたほど確信していたため、ここに来て違うと言われても素直に飲み込めなかった。
いや、だとしたら彼はどんなつもりでそんな高尚な台詞を述べているんだ?


「…あなたは、なぜまだここにいるんですか」
「はあ…?」
「ゲームオーバーを見届けたいのか?それならもうここにいなくたってできるでしょう」
「………」


目の前の「秀樹くん」は何も言わず、目を細めるだけだった。両手を離したと思ったら目を逸らされる。…やはり僕の推理は間違っていない。しかし、だとしたら彼が僕を奮起させる意図は何だ?
いや、わかる。この状況でそれしか考えられない。心臓を落ち着かせるように胸に手を当てる。目を閉じ、深呼吸をする。開く。


「まだ詰みじゃないのか」


そう零したタイミングで、目の前に電磁波のような光が生じた。
それは何もない場所から現れ、次第に電子が擦り切れる音と共に男の姿へと形作られた。警戒しながらうかがっていると、その人物が道中ですれ違った浮浪者だということに気が付いた。あのときアコーディオンを弾きながら奇妙な歌を歌っていたのを覚えている。突飛な人物の登場に目を瞠っていると、男は高らかに笑い声をあげた。


「おまえたちはまだ血まみれになっていない。まだ生きてるじゃないか。もう諦めるのか?
 すでにおまえらは真実を解く結び目に、両の手をかけているというのに」


「……!」その台詞に、頭を殴られたかのような衝撃を受ける。この男、ただの浮浪者じゃない。そう察したのも束の間、彼はまたもや笑った。「人生という無色の糸の束には殺人という真っ赤な糸が混ざっている」二人の男の声が重なって聞こえる。同時に、浮浪者の姿が光り、別の人物へ形を変えた。
呼吸を忘れていた。…ああ、誰に言われなくともわかる。


「それを解きほぐすことが、我々の仕事なんじゃないのかね?」


彼がこの世界のシャーロック・ホームズだ。

ホームズは再度浮浪者に姿を変え、僕たちの反応を見る前に消えてしまった。浮浪者共々一切の痕跡を残すことなく姿を消した彼の言葉は、僕の脳を覚醒させるのに十分だった。呼吸を取り戻し、視線を落とし思考する。


「どういう意味だ…?ジャック・ザ・リッパーは死んだのに、どうして俺たちが血まみれにならなくちゃなんねえんだよ…」
「……」


秀樹くんを見遣る。僕はさっきまで、列車を止めなければと考えていた。しかし、浮浪者の言葉は止めることを考えていないように受け取れた。
……止めなくていい。止めずに僕らが助かる方法。僕らが血まみれになる……。
「探くん、意味わかるか?」困惑気味の秀樹くんがこちらを見る。髪は乱れ、あちこち汚れているものの彼はパーティに来たときと同じグレーのスラックスに赤のジャケット…


「……! そういうことか!」


わかったぞ、彼の意図が!反射的に駆け出す。「お、おい?!」後ろで秀樹くんの動揺の声が聞こえ、振り返ってついてくるよう叫ぶ。二号車、三号車の屋根を駆け、最後尾の貨物車へ飛び移る。屋根には四角い蓋がついており、不要だと判断した拳銃を懐にしまってから両手で取っ手を持ち上げると開けることができた。暗がりでよく見えないが、貨物車の中にも人の姿はなかった。


「何する気だよ?」
「この中で最終駅に衝突するショックをしのぎます」


「…はあ?!」追いついた秀樹くんに簡潔に答え、先に貨物車へ降り立つ。予想通りワイン樽が両脇に敷き詰められていた。空間のほとんどが樽で埋められている。これだけあれば十分だ。そばの壁に掛けてあった小ぶりの斧を視認する。奥にあったもう一本の斧へ駆け出し、続いて降りてきた秀樹くんに近くの斧を取るよう指示する。


「下の樽から全部割ってください!」


「…おお!」秀樹くんはどこか覚悟したかのような声で応答し、言われた通り次々と斧で樽を割っていった。僕も反対側から割っていくと足元に勢いよく赤ワインが流れ出てくる。グレーのスラックスが赤黒く染まり、まるで血のようだった。


上の段まですべて割り終える頃には、僕らは一番上の棚に掴まった態勢で赤ワインの中に浮かんでいた。天井に手が届くほどだ。おそらく到着まで一分もないだろう。ブドウとアルコールの匂いが充満する空間と緊迫感で、我を保つので精一杯だった。


「僕が合図したら息を吸って潜ってください」
「ああ」


彼はすでに受け入れたらしい。ふと、この状況があまりに非現実的なことに気が付いた。ワインに浮かんでいることにもだが、それで衝撃を和らげようとする、自分がこんな大胆な賭けに出ていることに内心驚いた。我に返ると少しおかしくて、「…ふっ」笑いが漏れた。


「探くん?」
「…いえ、何でも。…そうだ、あなたにお礼を言わせてください」
「? よくわかんねえけど、礼なら一緒にゲームクリアしてから聞くよ、探くん」


勝ち気な笑みを浮かべた彼に、ぜひと返す。お礼だけじゃない。彼に言いたいことはたくさんあった。これが最後になんてならないよう、僕は静かに耳を澄ませた。もうすぐだ。すべての答えが明らかになる。誰のリタイアも無駄にさせない。
目を閉じると最後に見た不安げなさんの表情が思い浮かんだ。ああ、さん、あなたにも言わなければならないことが、たくさんある。

先頭から衝撃音が聞こえる。


「…今だ!」


僕らは肺いっぱいに息を吸い込み、勢いよく赤ワインへと潜り込んだ。


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