この蒸気機関車は貨物車両を含め四両編成らしく、次に踏み入れた車両が先頭車両だった。ジャック・ザ・リッパーはおろか人気すらなく、僕たちは駆ける足を止めることなく向かいの扉を開けた。正面に次の車両の扉はなく炭水車の壁とそれに架かる鉄梯子が見え、ぐっと顔をしかめる。


「この先は機関室しかねえぞ!」
「……」


遠回しに制するような秀樹くんの声を聞き流し、目の前にある鉄梯子に手をかけた。この状況で、嫌な予感しかしていないのは事実だったが確認しないわけにはいかない。炭水車の向こうに秀樹くんの言う機関室がある。本来であれば運転手がいるはずだ。風に煽られないよう足に力を入れながら炭水車の屋根を歩いていく。あとから秀樹くんも付いてきているようだ。特に振り返ることなく先頭まで行き、しゃがんで見下ろす。……やはり。


「はあ?!運転手もいねえのかよ!」
「なんとなく予想はついてましたが……それより、ブレーキまで壊されているのは…」


近くで見ずとも蒸気機関車の構造は頭に入っている。脇についている壊れたレバーがそれだというのも見ればわかった。火室では大量の石炭が燃やされている。気付けば、この列車は徐々に加速しているようだった。この状況から考えうる最悪の事態にハッと息を飲む。


「このまま列車ごと突っ込むつもりか…?!」
「はあ?!」


このまま終着駅まで行ったら無事じゃ済まない。ジャック・ザ・リッパーを捕らえる前に列車を止めなければ。しかし見る限り機関室にシャベルの類はない。石炭を火室から掻き出すのは非現実的だ。とすれば、炭水車と機関室の連結部を破壊するしかない。内ポケットから拳銃を取り出し、連結部に照準を合わせる。


「……っ」


迷わず発砲する。緊張からか発砲音が耳につかなかった。鉄を弾く音も聞こえたため連結部には被弾したはず。しかし、目に見えるダメージは与えられなかった。


「……」


浅い呼吸を繰り返す。列車の振動が身体に伝わる。思い切り息を吸い込もうとしたが、胸で支えてさほど吸い込めなかった。
このリボルバーの装填数は五発。トランプクラブでの秀樹くんの一発と今ので、残弾はあって三発か。

あと三発で連結部を破壊することかできるのか?

心臓の音が嫌にうるさい。汗がこめかみを伝う。唇は渇き、指先からどんどん熱が奪われていくようだった。拳銃を使ったところで、連結部を切り離せるとは考えられなかった。そして、代替案が頭の中にないことも、焦燥感を駆り立てていた。


「おい、あれ!」
「え?」


近くにいた秀樹くんに肩を叩かれた。顔を上げ、まっすぐ指差すそれを辿り、背後を振り返る。その先には四両に渡る客車と貨物車両が続いているはずだった。
いや、確かに続いていた。しかし二両目の屋根に、目を疑いたくなる光景があった。


さん!」


さんとジャック・ザ・リッパーがいた。先ほど車内で見たピンク色のドレスは脱ぎアーミーのような服を着ていたが、赤い長髪は地毛だったらしく今もなびかせている。一方さんは横たわり、ジャック・ザ・リッパーの足蹴にされていた。助けなければ。反射的に駆け出し、炭水車から客車へと飛び移った。風に足を取られる懸念をしている余裕すらなかった。

一車両目を駆け、二車両目にたどり着く。近くに駆けつけてようやく、さんが身体をロープで縛られ自由を奪われていることに気が付いた。


「ジャック・ザ・リッパー…何を…」


さらなる悪展開に一瞬思考が停止する。さんを縛ったロープの先は、なんと彼の腰に巻き付けられていたのだ。「俺が落ちたら彼女も一緒に落ちるというわけだ。さあ、おまえはどう戦う?」ジャック・ザ・リッパーは勝ち誇ったように笑みを浮かべ、どこからかナイフを取り出した。


「白馬くん、ごめん…」


力なく謝るさんに胸が痛む。あなたが謝る理由はどこにもない。元はと言えば僕が巻き込んだことだ。この事態も、僕の慢心が招いた。もっと確実に彼を確保する方法を取るべきだった。
歪んだ表情のまま、深い夜に鈍く光る拳銃に目を落とす。両手で持ち直し、真正面へと構える。照準はジャック・ザ・リッパー。撃つ覚悟は、ある。この期に及んで尻込みはしない。ただ、武器の有利を覆すほどの劣勢に立たされているという自覚があった。
唯一の武器であるリボルバーの残弾は三発。向こうにはさんという人質もいる。有利どころか不利だ。対峙する彼に隙は見当たらない。ここにいる全員を、すぐにでも殺せる自負があるのだろう。モリアーティ教授の言った通り、彼は殺人鬼として有り余る才能を持っていた。この世界に来てすぐ目撃した彼の犯行。ホームズの部屋で見た事件資料。生い立ちや母親を殺害した事実を知ってもなお、目の前に立ちはだかる彼のことは理解しきれなかった。銃口を向けたまま、口を開く。


「…ジャック・ザ・リッパー、あなたはなぜこんなことを……」


聞かずにはいられなかった。それを問うと、彼は恐れなど微塵も見せず不敵に鼻で笑ってみせると、何のためらいもなく答えたのだった。


「生き続けるためだ!俺に流れている凶悪な血を、ノアの方舟に乗せて次の世代へとなあ…!」


「そのために邪魔する貴様はここで死んでもらう!」気圧されるほどのプレッシャー。しかし僕はこの瞬間だけ、今自分の置かれた状況を忘れていた。頭に浮かぶのは三つのアルファベット。ある人物の頭文字。


JTR 僕がここに来た理由に触れた気がした。


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