ジャック・ザ・リッパーの逃げた先はチャリング・クロス駅発の蒸気機関車だった。何両編成かは確認する余裕がなかったが、最後尾は赤ワインを乗せた貨物車両のようだ。発車し始めていたそれへ何とか飛び乗った僕たちは、貨物車両と繋がっている客車へ潜り込んだ。ジャック・ザ・リッパーもここから車内へ入ったように見えたが特に騒ぎにもなっていないところを見るにうまく紛れ込んだらしい。


「いねーな、あいつ。つっても顔よく見えなかったけどよ」
「白馬くん、どうする…?」
「僕に考えがあります。少し危険かもしれませんが」


そう話しながら車内の通路を歩いていくと、入り口に立つ金髪の男性を見つけた。赤い制服と帽子を見るに車掌で間違いないだろう。ジャック・ザ・リッパーの変装の可能性をうっすら懸念しながら近づき、声をかける。「すみません、少しよろしいでしょうか」それから、ジャック・ザ・リッパーがこの列車に乗り込んだことや変装して身を隠しているだろうことを説明し、正体を突き止めるために乗客を一つの車両に集めるよう頼むと、彼は動揺を見せながらもわかりましたと二つ返事で承諾し、駆け出した。それを見送りながら、顎に指を当て思考する。おそらく彼はジャック・ザ・リッパーではないだろう。だとしてももっと怪しまれるかと思ったが、思いの外すんなり聞き入れてもらえたのは意外だった。


「何するつもりだよ探くん」
「言った通り、推理ショーですよ」


セント・マリー教会からの帰り道に話した通り僕はジャック・ザ・リッパーの一連の犯行についてある推理をしており、アイリーン・アドラーへの襲撃を経てもそれは特に更新されることはなかった。彼の身元も犯行方法も不明なままここまで来たが、不思議と不十分だとは思っていなかった。現にこの状況であれば、彼を特定することができる。列車は走る密室だ。逃げることはできない。車掌を含め乗客の力を借りれば一人を拘束することも十分に可能だろう。

乗客の移動を待つ間、通路の壁に寄りかかり、一つ息をつく。今が最終局面だと思うのは楽観的だろうか。ゲームクリアの条件である彼の確保が目の前にあると思える。これは工藤先生の作ったシナリオに沿っているだろうか。
トン、と隣でさんも壁に寄りかかった。見下ろした先の浮かない横顔は紅子さんのことを気にしているのだろう。心配になり、声をかける。


さん、大丈夫ですか?」
「あ、うん!さっきはごめんね…!」


パッと顔を上げると打って変わって平気そうで呆気にとられる。「いえ…」持ち直せたのだろうか、一見いつも通りの元気な彼女に見えた。


「しょげてらんないよね、わたしもちゃんと、役に立てるよう頑張るよ!」


誓うように拳を作る彼女に一瞬、悪い予感が脳裏をよぎった。しかし上手く言語化することができず、僕は結局言葉を飲み込んだのだった。

乗客全員が集まったと車掌から報告を受け、奥の車両へ移動した。ドアを閉め中を確認すると、壁に沿うようにコの字に十三人の乗客が待機していた。イスが足りず座れていない人もいたが、車両まるまる一つが部屋になっており広い空間だった。両脇の壁にはカーテンが閉められた窓がいくつか付いている。入ってきた入り口側に立ち、老若男女様々な乗客を一瞥する。


「思ったより乗客が少ないですね」
「そうでしょうか?最終便はいつもこのくらいですが…」


どうやらこの列車は本日の最終便らしい。そうですか、と短く返し、それから彼らへ向け、おもむろに両手を上げてみせた。
さあ推理ショーの幕開けだ。必ず突き止めてみせましょう。ジャック・ザ・リッパー、あなたの正体を。


「お集まりいただきありがとうございます。早速ですが皆さん、両手を挙げてください。まずは凶器をお持ちではないか、確認させていただきます」


それぞれが困惑の表情を浮かべながらも両手を挙げていく。端から見回し、最後の一人を確認し終え、ありがとうございますと両手を下ろす。


「ではこれから、ミスター・ホームズの資料に書かれてあったことを説明します」


それから僕は滔々と事実と推察を説明した。ジャック・ザ・リッパーの二人目の犠牲者、ハニー・チャールストンの殺害が彼の目的であったこと。ハニーは十年前、夫と息子を捨て、ロンドンへ出てきたこと。ハニーの殺害現場の遺留品である二つの指輪のうち、一つはハニーの物だったがもう片方はハニーのどの指にも合わなかったこと。
ホームズの資料から拝借した写真をジャケットの内ポケットから取り出しながら続ける。「ミスター・ホームズはこう推理しています。この二つの指輪は、ハニー・チャールストンとジャック・ザ・リッパーの親子の絆を象徴しているのではないか、と」

僕の推理はこうだった。ハニーは同じデザインの指輪を息子の指にはめて家を出た。親子であるという裏付けとして、殺害された九月八日は、殺害現場の隣にあるセント・マリー教会で月に一度開かれる親子バザーの日だった。ジャック・ザ・リッパーは母親とバザーに参加したかったという気持ちを込めて指輪を二つ置いていったのだろう。殺人の動機は、自分を捨てた母親への恨みと、変えがたい愛情だろうか。複雑な感情はおそらく彼自身にしか推し量れないだろう。

「一人目の犠牲者に無関係な女性を選んだのは警察の目を誤魔化すため。しかし彼は、目的である母親の殺害を果たしても犯行の手を止めませんでした。おそらく、モリアーティ教授による英才教育が彼を異常性格犯罪者に育て上げてしまったのでしょう」

「そして彼は今、この中にいます」そう推理を締めくくる。車両内には困惑の空気が色濃く漂っていた。自分の真横にいる人間は殺人鬼かもしれない。その恐怖心は当然の感情だ。
「どいつだよ、ジャック・ザ・リッパーは…」しびれを切らしたように急かす秀樹くんを横目に写真をしまう。乗客はちらちらと不安げな表情で僕を見ている。「…彼は子供の頃から同じサイズの指輪をはめ続けていたのでしょう」左手を開いた状態で顔の前へ持ってきてみせ、悩ましげに眉をひそめた秀樹くんに小さく笑みを浮かべる。


「だから大人になってもその指だけ細いまま……そうでしょう、ジャック・ザ・リッパー」


ある乗客へと視線を向ける。全員がその先を辿るように首を動かすも、ただの一人だけ、うつむいたまま微動だにせず、イスに座っている人物がいた。右奥のイスに座る長い赤髪の女性だった。


「え、あの人女の人だよ…?!」


さんの動揺の声もわからなくない。しかし彼女の指は先ほど両手を挙げさせたときに確認済みだ。十本の指のうち一本だけが細かった人物は彼女ただ一人だ。
その女性は、全員の視線を一身に受けながら不敵に笑った。右手の甲を向けながら五本の指を見せる。他と比べて異常に細い薬指が目に入る。
全員のどよめきを待たずしてジャック・ザ・リッパーは立ち上がり、服の隙間から何かを取り出した。


「っ!」


防ぐ間もなくそれを地面に叩きつけられる。彼の足元からたちまち煙幕が広がり、あっという間に視界を奪われた。まだ逃げるつもりなのか。予想外の抵抗に一瞬身体が硬直する。まずい、今攻撃されたら……!


「窓を開けてください!」


煙を逃がさなければ。指示すると「はい!」さんの声といくつか動いた気配を感じ取った。自分も記憶していた窓の位置へと駆けると予想に反し誰ともぶつかることなく壁際へ辿り着くことができた。手探りで掴んだカーテンを横に引き窓を開ける。白い煙が外へと流れ風に攫われていった。列車の車輪の音と風を切る音が車内に響く。
振り返ると車内の視界はいくらか開けていた。しかし、一変した光景が広がっていた。


「乗客が消えた…?!」


なんと、さっきまでいた乗客と車掌が全員、跡形もなく消えていたのだ。もちろんジャック・ザ・リッパーもいない。そして、


さん!」
「! あいつもいねーのか!」


さんがいない。車内を見回してみるも気配すらない。開いた窓は二箇所、僕と秀樹くんが手を掛けたところのみだった。まさかゲームオーバーになったのか?しかしそれにしては、消えるのが早すぎる。


「探くん、ドア開いてんぞ!」
「…ジャック・ザ・リッパーに連れ去られたか…!」


思わず悪態をつく。クソ、完全に油断した。あそこから逃げるとは思っていなかった。乗客を人質に取られる可能性は考えていたが、甘かった。僕のミスだ。後悔の波に襲われ壁を殴りたい衝動に駆られるが、拳を作るまでに堪えた。


「探しましょう、この列車に必ずいるはずです」


駅に到着する前に見つけなければ。焦燥感に心臓を打ち鳴らせながら、僕は奥の車両へと続くドアを開けた。


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