なんとか劇場を抜け出すと外には騒ぎを聞きつけた住民たちで人だかりができていた。ジャック・ザ・リッパーはいない。集団を一目で判断し、この場から離れるように近くの建物の間を駆け抜ける。彼がどこから来るか辺りに意識を張り巡らせながら、左手に力を込めた。


「大丈夫ですから、さん」


握っているのはさんの手だ。紅子さんのリタイアが余程堪えたのだろう、彼女は先ほど呆然と座り込んだまま動き出せなかった。僕に無理やり手を引かれついてくるのがやっとだった。彼女の気持ちはわからなくもないが、今は一刻も早く正気に戻ってもらわなければ。


「!」


狭い路地を抜けると左方向から明らかな敵意を向けた男が駆けてきていた。薄暗いため人相まではわからないが、ジャック・ザ・リッパーだと直感した。アイリーン・アドラーは秀樹くんと滝沢くんと一緒に後ろについてきている。まだ距離はあるが、逃げ切れるか。
駆け出そうとすると逆方向へ左手を引っ張られた。一瞬離しそうになったのを堪え、力を入れ直し振り返る。「何を、」つい口をついた。まるでさんが、ジャック・ザ・リッパーと対峙しようとしていたのだ。その意味に気付きカッと頭が熱くなる。


さん!」
「!」


こんな強い口調で彼女を呼びつけたのは初めてだった。しかし取り繕っている余裕は、状況的にも心境的にもなかった。握る手に力を込めて引き寄せ、走り出す。


「自暴自棄にならないでください!紅子さんが庇ったことを無駄にしたくないでしょう!」


僕らにジャック・ザ・リッパーを安全に確保する力はない。だから今は逃げるのが得策だ。対峙するなんてもってのほか。大事な命を投げ打つ意味はない。絶対に死なせまいと握りしめ、ロンドンの街を駆けていく。こちらにアイリーン・アドラーがいる限りジャック・ザ・リッパーは追いかけてくるだろう。ならば彼を行動不能にできる人物か施設に助けを求めるしかない。


「ごめんなさい……」


後ろで、さんのか弱い声が聞こえた。振り返ると、彼女の目から、ポロっと涙が溢れた。それ以上を堪えるような表情に、僕はああ、と安堵するのだった。


「ぐわっ!」


ハッと後ろに目を向けるとジャック・ザ・リッパーが追いついていた。呻き声と共に、アイリーン・アドラーの後ろを走っていた滝沢くんが立ち止まる。咄嗟に手を離し、内ポケットから拳銃を取り出し銃口を向けると警戒したジャック・ザ・リッパーは民家の陰へと距離を取った。


「滝沢!」
「わり、背中やられたっぽい。ちくしょー…」


彼の身体に虹色の波紋が走る。その色は、ゲーム開始前五十人の参加者が集められた空間でも見たものだった。ノアズ・アークの音声に合わせて点滅する巨大な輪と同じだった。滝沢くん自身には痛みも外傷もなさそうだが、やはり重い衝撃を受けたのだろう。照明器具や石像の下敷きになった三人を見ても、致命傷とは行かずとも深いダメージを受けるとゲームオーバーになるのは間違いなかった。


「諸星、あと頼んだぞ!」


「…まかせとけ!」息を飲むような秀樹くんの決意を背中越しに聞いた。滝沢くんの身体が粒子に分解されるように消える。それとほとんど同時に、警笛を鳴らしながら駆けてくる警官の姿が見えた。
夜闇をどこまでも突き抜ける笛の音に、距離を取っていたジャック・ザ・リッパーが駆け出した。民家の陰から飛び出した彼の表情ははやりよく見えないが、警官から逃げようとしているのは明白だった。ここで見失うわけにはいかない。瞬時に判断し、アイリーン・アドラーへ振り返る。


「あなたは警官へ助けを求めてください。僕たちはジャック・ザ・リッパーを追います」
「ええ、ありがとう…みんな、気を付けてね」
「はい。あなたも」


あいさつもそこそこに踵を返す。拳銃をしまいながら、さんへ再度手を伸ばそうとしたが、「大丈夫!」と返されたので無理強いはせず駆け出した。彼女の足取りは先ほどよりしっかりとしていたため、確かにもう大丈夫なのだろう。内心胸をなでおろす。後ろから秀樹くんがついてきているのも足音で確認しながら、この短時間であっという間に三人になった僕らは、数メートル先の殺人鬼の背中を追うのだった。


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