舞台の中央に立ちスポットライトを一身に浴びる彼女、アイリーン・アドラーさんは恐れなど何も抱いてないかのごとく堂々と歌っていた。


ターゲットにされた彼女を守るため、ひいてはジャック・ザ・リッパーを捕まえるため、わたしたちは夕陽が沈む頃、オペラ劇場へと赴いていた。花束を用意して劇場内の関係者通路を歩くと当然のように関係者に呼び止められたけれど、アイリーン・アドラーの知り合いだと嘘をつけばあっさり彼女の控え室へ案内してもらえた。
控え室にいた彼女はピンクのドレスに身を包み、準備はすでに整っているようだった。開演前の役者さんの楽屋に訪問する罪悪感はあれど、そんな悠長なことを言ってる場合ではなかった。笑顔で出迎えてくれた彼女へは、わたしたちがホームズの代わりに来たこと、モリアーティ教授が殺し屋を差し向けたことを話し公演を中止するよう進言したものの、彼女はへでもないというようににこりと笑い、それを断った。「皆さんが守ってくださるんでしょ?ホームズさんの代わりに」スレンダーな体躯と巻いたブロンドヘアにお似合いの美しい笑顔は女のわたしでも見惚れてしまうほどで、改めて一世を風靡した伝説の女優は違う、と感嘆したのだった。
そう、アイリーン・アドラーさんのモデルはなんと、あの藤峰有希子だったのだ。二十歳で引退した伝説のアイドル女優ってことは知っていたけれど、「工藤先生の奥さんですよね」と白馬くんに耳打ちされたときは驚いた。それは知らなかった、なるほどだからモデルになってるのか、と納得するばかりだ。結局アドラーさんを説得することはできず、彼女はわたしたちに舞台裏での自由行動を許可し、スタンバイに入ってしまったのだった。


はあ、と息を吐く。張り詰めていた緊張から少し逃避したかったのだ。ジャック・ザ・リッパーがどこから彼女を狙うのか、見当もつかない。明かりのほとんどない舞台袖は息をするのさえ躊躇われた。アドラーさんの好意によって舞台袖で控えることを許されたわたしたちはいつ訪れるかわからない変事を今か今かと待ち構えていた。そもそも公演中じゃないかもしれない。終わったあと、アドラーさんを狙うのかもしれない。ここに来てようやく、わたしは自分の下した決断の重大さに押しつぶされそうになっていた。わたしがモリアーティ教授の提案に乗ろうなんて言ったから。

でも現実問題、日和ってる場合じゃないんだ。オペラ劇場に来る前に見たビッグベンの時計盤はついに0時7分を指していた。つまりここ以外のステージは全滅したのだ。わたしたちがゴールに辿り着かないと五十人全員が死んでしまう。それを阻止するためには、なりふり構ってなんていられない。
とかいっておきながら、現状わたしは何の役にも立ててないのだけど。顔を上げ、ちらっと目の前の白馬くんを盗み見る。彼は一人滔々と歌うアドラーさんに注視していた。こんな突拍子もないゲームの世界でも、白馬くんはいつも通り落ち着いていて、とても頼りになる高校生探偵だった。白馬くんがいなかったらジャック・ザ・リッパーの真意にも辿り着けなかっただろう。事件現場から戻ってくる最中聞いた事件の真相は、あまりに切なくて身が千切れてしまいそうだった。

真相を聞いたからといって、あとは大丈夫なんてことはない。白馬くんなしでこのステージをクリアできる気はまるでしない。だから、白馬くんを優先して生かすべきだと思ってる。わたしより奥からアドラーさんを見ていた紅子ちゃんへ視線を動かすと、彼女はわたしに気付いて目を合わせてくれた。口で手を覆い、ひそひそ話で伝える。


「紅子ちゃん、白馬くんは絶対にゲームオーバーにさせないようにした方がいいよね」
「…ええ、そうね」


少し煮え切らなかったけど、紅子ちゃんの同意も得られた。よし、と気を引き締め直し、再度アドラーさんへ視線を向ける。アドラーさんを守らなきゃいけないけど、それより白馬くんだ。ここまで役立たずだったんだから、いざとなったら白馬くんの盾にでもなってやる。わたしがゲームオーバーになっても白馬くんが生き残ってさえいれば、絶対助かるもの。


「とにかくあの人をジャック・ザ・リッパーから守りゃいいんだよな」
「ええ。向こうがどう出るかわからないので、注意しましょう」


舞台に近い位置から見ていた諸星くんと白馬くんのやりとりに頷こうとした、瞬間だった。

突如轟く爆発音に床が振動する。驚きと共に、来た、と心臓が浮く。よろけて白馬くんに寄りかかってしまい、肩を両手で受け止められる。「大丈夫ですか、」爆発音はまだ鳴り止まない。


「危ない!!」


白馬くんから離れて立ち直したときにはすでに滝沢くんたちが舞台に出ていた。舞台中央で戸惑うアドラーさんの頭上から、機材のライトが落ちてきていたのだ。一目散に駆けつける彼ら四人を追うように一歩、駆け出す。


ガシャン!!


思わず目を瞑る。激しい落下音のあと、おそるおそる開いてそこを見た。照明器具の下敷きになるように江守くんと菊川くんと滝沢くんが倒れ、間一髪で突き飛ばしたのだろう、そばでアドラーさんが床に手をついて彼らを覗き込んでいた。


「江守!菊川!」


諸星くんがすぐにライトをどかしてようやく三人は起き上がった。外傷はなさそう、だ。けれど、「あ、菊川…」「江守くんも…」お互い見合った江守くんと菊川くんの身体には、オーロラのように波紋が波打っていた。誰に説明されたわけでなくてもわかる、これが何を示しているのか。ドッドッと心音が増す。声が出ない。


「ちぇっゲームオーバーかよ」
「くやしいわね…」


二人は尻餅をついたまま、あははと遣る瀬なさそうに笑った。「滝沢くんは無事だったの?」「みたいだな…」丁度機材にぶつからなかったのか、滝沢くんだけは自分の身体をあちこち確認するも異変はなかったらしい。そばで膝をつき、二人の顔を覗き込んだアドラーさんがこの状況をどう感じてるのかわからなかったけれど、「ありがとう、おかげで助かったわ」その柔らかい声音と笑顔は、彼らの勇気を褒め称えていた。


「…人に感謝されたの、初めてね…」
「い、いいもんだな…」


三人はヘヘっとむずかゆそうに笑い、滝沢くんだけがおもむろに立った。身体にオーロラを纏いながら、菊川くんたちは残った二人を見上げる。


「諸星くん、滝沢くん、あとよろしくね」
「おう!」


滝沢くんが力強く応えると、二人は粒子のように消えたのだった。

こうなるんだ、と心臓が痛む。戸惑うわたしとは対照的に、真っ先に動き出したのは諸星くんだった。「早く逃げるぞ!」アドラーさんの腕を引き立ち上がらせる。続いて白馬くんが先導する。退路は事前に会場を見回っていたとき決めていた。あとに続くように諸星くんとアドラーさん、滝沢くん、後ろにわたしと紅子ちゃんが駆けていく。
舞台裏は暗所が多くジャック・ザ・リッパーに襲われたとき逃げ場がないため、一般客が使うロビーを通って外へと逃げることにしていた。爆発の影響であちこち壁やインテリアが壊れていたけれど道としては十分確保できている。このまま外に出て逃げ切る算段だった。大丈夫、ジャック・ザ・リッパーはいない。アドラーさんを守りながら出方をうかがうんだ。


!」


振り返ると、紅子ちゃんがわたしに手を伸ばしていた。

ダンッと強く背中を打つ。紅子ちゃんに突き飛ばされたのだ。ほとんど同時に背後で石が雪崩れるような音が聞こえる。考えるより先に起き上がる。


「あか、」


目の前には、わたしの足元で倒れる紅子ちゃんがいた。ボロボロに崩れた石像の下敷きになっていた。ひゅっと息を吸い込む。次第に、身の毛もよだつようなオーロラが、彼女を包んだ。心臓は止まっただろう。息もできない。


「…あ……」


紅子ちゃんの身体の輪郭を確かめるようにカラフルな輪が波打つ。ついさっきも見た光景に、しかしフラッシュバックするのは、いつかのパーティ会場のトイレで見た地獄絵図だった。止まった心臓が急速に脈を打ち出す。汗も吹き出した。
あのとき。紅子ちゃんがわたしを庇って拳銃で撃たれた。血を流した。わたしのせいで紅子ちゃんが………。


「大丈夫、よ」


紅子ちゃんの手が伸びる。思わずすがるように両手で掴んだ。紅子ちゃんはもう動く気はないかのように、肘をついてうつ伏せた身体を少し起こしただけだった。わたしを安心させるような笑顔は、つらそうではあったけれど、しかし本当に、大丈夫だと言っていた。


「あなたはちゃんと、白馬くんについて行ってあげなさい」
「あかこちゃん……」


頭は真っ白で何も考えられなかった。仕方なさそうに笑う紅子ちゃんを視界に映すので精一杯だった。後ろで白馬くんたちが何か声をかけているような気がしたけれど、何もかも遠かった。


「…ね、私のことちゃんと助けてよ?」


最後にそう言って、紅子ちゃんは消えた。

消えて空いた空間に石像だった欠片が雪崩れる。その光景にすら寒気がした。身体がぶるっと震える。
ガコン、と、どこかで時計の針が戻る音が聞こえた。


紅子ちゃんがゲームオーバーになった。


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