トランプクラブの正面入り口に立っていたのは帽子を目深に被った男性の老人だった。表情はうかがえないが恭しく頭を下げた姿勢は気品があり、襟から袖口まで皺一つなく整えられた紺色の制服はしかし、一見して外での仕事を生業としている人種であることが察せられた。御者だろうか。それもただの御者ではない。モリアーティ教授という上客の元に仕えている御者だ。


「!」


彼の関係者の登場に気を取られて気付くのが遅れた。店にいた暴漢たちの姿が綺麗に消えていたのだ。左腕を上向きに曲げながら拳銃を下ろす。平静を保ちながら目だけで周囲を見回すも、この店にいるのは僕、大佐、ワインボトルを持った男と、入り口に立つ御者のみだった。
さんたちは、と顔を上げる。ドアの隣の窓越しに、僕を案じるように秀樹くんたちが見えた。無事か、と内心安堵し御者に視線を向け直すも、辞儀はやめたものの年齢のせいか背筋は曲がったままで顔は依然よく見えなかった。


「そちらのボトルをお持ちになってお越しください」
「え…」
「お、お待ちください!」


背を向けた御者へ制止の声をあげたのはモラン大佐だった。僕が目を丸くして振り返るも気に留めた様子はなく、「モリアーティ様に逆らうおつもりですか?」御者の言葉に尻込むのみだった。(……、)それを横目に、僕は支持通りワインボトルを抱きかかえる男へ歩み寄った。拳銃を内ポケットにしまい両手を差し出すと渋々渡される。男がずっと抱きかかえていた割に体温は残っておらず、改めてゲームの世界だと実感した。僕らプレイヤーの体温は感知できるが、ノンプレイヤーキャラクターには元から体温がないのだろう。いや、ここまで作り込まれていたら、モラン大佐やモリアーティ教授のような主要な登場人物くらいなら体温がありそうだ。
そんな場違いなことを考える余裕が出てきたらしい。むしろ鼓動は高鳴っていた。二人を残しトランプクラブをあとにすると、魔闇の外にはさんたちが店の壁沿いに僕を待っていた。「白馬くん…!」入り口の一番近くで眉をハの字に下げ名前を呼ぶさんに、はい、と笑みを作って返す。


「無事でよかった〜…」
さんこそ…と、その話はのちほど」


「今は教授がお待ちかねなので」小声で囁くと、さんはあっと声をあげたあと、おそるおそる振り返った。視線の先には路肩に停まる馬車があった。暗くてよく見えないが、座席には男性が一人座っている。乗車口に控えるのは先ほどやってきた御者。さんがごくりと喉を鳴らす。


「あの馬車、気付いたら停まってたんだよ」
「ゲームの世界らしいですね」
「うん…」


不安の拭えない表情のさんの肩を優しく撫で、安心してくださいと伝える。それから、彼へと歩み寄る。


「さて、そのワインをいただこう」
「はい」


座席に座る彼に合わせるように御者が手を差し出す。一歩近づき、それに乗せるようにワインボトルを渡した。ふわっと鼻腔を掠めた香りに一瞬動きを止めたが、御者も座席の彼も何事もなくボトルの受け渡しをしていた。見上げるも、モリアーティ教授と呼ばれる彼は黒のシルクハットを深く被っておりよくうかがえない。


「……」
「モラン大佐と互角にやりあうとは、さすがホームズの弟子たちだ」


座席の彼から賛辞の言葉を受け取る。…弟子。やはり僕らはベイカーストリートイレギュラーズの設定なのだろうか。


「光栄です。僕たち、モリアーティ教授にお聞きしたいことがあって探していたんです」
「ほう、何かな?」
「教授」


座席の彼から視線を移し、僕の目の前に控える御者を見据える。試されているのか。真意は不明だが、このまま騙され続けていたら聞きたいことは答えてもらえないと直感できた。


「あなたが本物の教授ですね」
「……」
「変声術…というより腹話術ですね。いや、お見事です」
「フッ…フフフ……」


「そこまで見抜かれていたとは」肩を震わせながら制服の丸帽子を外した御者の素顔は、なるほど悪の総本山、と納得できるほど悪どい顔つきだった。


「なぜわかった」
「モラン大佐があなたに敬語を使っていたので。いくら自分のボスであるあなたの御者とはいえ、あれほど仰々しい言葉遣いはしないかと。それから、あなたは天然ハーブ系のコロンを使うおしゃれなご老人とうかがっていましたので」


「へー、それがワインを渡したとき匂ってきたってわけか」後ろで秀樹くんが言う。それに頷き、再度目の前の教授に向き直る。座席に座っていた人物はシルクハットを取りながら席から降りていた。随分優しげな顔をした老人が何も言わず運転席へ移動するのを音だけで察する。


「見事だ。まるで若いホームズを見ているようだ」


ゲームの世界でも感じる威圧感と同時に胸を占めていたのは高揚感だった。この世界のモリアーティ教授と対面しているという事実に、たまらずふっと笑ってしまった。


「それで、聞きたいこととは?」
「ジャック・ザ・リッパーについてです。あなたと彼は繋がっていますよね?」
「そうだ。そもそもジャック・ザ・リッパーはもとより、私が育てた犯罪者だ」


それから彼はジャック・ザ・リッパーという人物について話した。貧民街で母親に捨てられた浮浪児であったジャック・ザ・リッパー。彼に犯罪者としての才能を感じ、以来一流の殺人鬼へ育て上げた。そして、現在、自分の想像を超える殺人鬼となった彼は教授の指令なしに暴走を始めた。一連の事件がそれだという。
なるほど、と顎に手を当て思考する。教授とジャック・ザ・リッパーの関係は判明したものの、彼を逮捕するに足りるヒントは得られていない。やはり事件現場に足を運ぶか、と内ポケットにしまった写真をジャケットの上から確かめる。上から差し込んだ拳銃の硬い感触に人知れず眉をひそめた。
そもそも、教授から得られる情報というのはこれだけなのだろうか。思ったより少なく感じるのは僕だけか?もしかしたら、取りこぼしたヒントがあるのかもしれない。


「君たちがジャック・ザ・リッパーを退治しようとしているのなら、私も協力しようじゃないか」
「えっ?」


思わぬ提案に耳を疑った。顔を上げ、彼を凝視する。…協力?何を言っているんだ。モリアーティ教授はジャック・ザ・リッパーの育ての親といっても過言ではないはず。その親が、どういう了見だ。


「ジャック・ザ・リッパーは確かに暴走し始めているが、私が殺しの指令を送ればまだ従うはずだ。君たちがそこに先回りすればいい」
「…どうやって指令を?」
「明日のサンデータイムズの広告に彼へのメッセージを載せる」
「誰を殺せと」
「明日の新聞を見ればわかる」


淡々と返される言葉に、正直気分はよくなかった。人殺しを提案されているのだ、当然だろう。後ろでこんな話を聞かされているさんたちの顔を見れなかった。


「……」
「探くん、信じんのかよ。このじーさんの言葉」


教授を見据えたまま顎を引く。信用するしないのレベルなら、信用すると答える。ゲームの展開や、ここまで七面倒なことをしてようやく会えた教授の役割が僕らを騙すことだとは思えなかった。
僕が即答できないのは、人道に反した作戦に乗ることが躊躇われたからだ。乗るということは人ひとりの命を危険に晒すということ。そんなことが許されるのか。


「あ、明日の新聞ですね!」


突然、右手を掴まれた。振り向くとさんが僕の手を両手で握り込んでいた。視線は教授を見据えている。表情は強張っている。強がっていた。


さ、」
「先回り、やろう!白馬くん!」
「……、」
「決まりだな」


「幸運を祈る」教授は不敵な笑みを見せ、馬車の座席へと座った。ハッと顔を上げ、彼へ問いかける。


「モリアーティ教授!なぜこんな……」


途中まで口にして、止まった。…いや、ゲームの登場人物に聞いても仕方ないか。そもそもモリアーティ教授自体、物語の中の登場人物だというのに。「いえ、何も…」誤魔化すと彼は訝しげな表情を浮かべたが、言及することなく御者に指示を出し馬車を発進させた。夜の静けさに馬車馬の足音と車輪の転がる音が広がる。それを、どこか放心したように見つめていた。


「…あ、白馬くん、勝手に決めちゃってごめん…」
「…いえ、むしろあそこまで一人で話を進めておいて、決断を任せてしまってすみません」


バツが悪くて額を押さえる。僕が即答できなかったせいでさんに辛い決断をさせてしまった。情けなさに後悔していた。ゲームの世界だからと割り切ってさっさと乗ってしまえばよかった。それができたさんはやはり勇敢だと、………。


「そうだ、さん。さっき入り口で男を倒してたのは…」
「えっ?あ、あれは、外で待ってたらなんか中大変なことになってたから、白馬くんたち助けようって、ね、紅子ちゃん!」
「ええ…といっても、逃げ道を確保するためにドアを開けるよう言っただけよ。まさかが体当たりするなんて思ってなかったわ」
「だって開けたら男の人が塞いでたんだもん…!もう無我夢中だったよ!」


両手をわなわなと震わせ力説するさんに苦い顔をしてしまう。まただ、彼女の勇敢さを向こう見ずと評したくなる。一歩間違えれば彼女がゲームオーバーになっていた。「…怪我がなければいいですが」もちろん、今回一番咎めるべきは彼女ではないのだが。


「秀樹くんたちも」
「うっ…」
「反省、してくださいね」
「…はい…」


見るからにシュンとする二人に一つ息をつく。今回、ゲームオーバーが出なかったのはラッキーだった。あの乱闘を被害なしで終えられたのは偶然でしかない。そしてこの先、危険なことはまだ起こるだろうことを予感させられた。このまま脱落者を出さずに行けるだろうか。紅子さんと話すさんを見ながら思った。


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