「まあいいけど、ほら、これじゃない?」呆れたように息をついた紅子さんが差し出した物に目を落とすと、それは印刷された本ではなく、厚めの紙束に二穴を開け、黒紐で綴られた資料だった。何箇所にも付箋が貼られており、黒の厚手の表紙には[An analysis of Jack the Ripper!]、ジャック・ザ・リッパーに関する考察と記されていた。一目で探していたものだと判断できる。手にしていた雑記帳を一旦机に戻し、彼女から受け取る。


「まさにこれです!ありがとうございます」
「そう、よかったわ」


澄まし顔で返した紅子さんがさんたちを呼び、全員が部屋中央の丸テーブルへと集合する。ハドソン婦人がここにやってくるまであとどれくらいだろうか。これだけ物色していては怪しまれるだろうから何かごまかす言い訳を考えた方がいいだろうか?密かに気になったが考えるだけ時間の無駄だろうと頭の隅へ追いやる。どんなに急いでも時間は足りない。次の目的地さえわかれば、彼女が戻ってくる前にここを発つつもりだった。


「紅子ちゃんが見つけたの?」
「ええ。あの本棚にあったわ」
「すごーい!背表紙ないしわたしだったら見落としてたかも」


さんたちの会話を小耳に挟みながら、丸テーブルに置いた資料をめくっていく。どれも表題に違わずジャック・ザ・リッパーに関連する内容のようだが、読み込んでいる時間はなかった。とにかく事件の情報が欲しい。今日起こった事件はなくとも、第一、第二の事件なら記されているかもしれない。ゲームを滅多にやらない僕でも、プレイヤーの知らない情報が得られるのはここだと確信していた。


「…あった」


一つ目の事件、二つ目の事件と記事を読み上げながら要点を頭にインプットしていく。特に後者は気になる点がいくつか記されていた。二人目の被害者、ハニー・チャールストンの遺体。事件現場であるセント・マリー教会の隣の空き地。大きさの違う二つの指輪…。場所がわかっているなら一度見ておきたいところだ。


「ジャック・ザ・リッパーがどんな人なのかはさすがにわかってないね…」
「…そういえば、原作者のコナン・ドイルが、ジャック・ザ・リッパーは女装した男性だと推察していたとどこかで聞いたことがあります」
「女装した男性…?」
「ええ。ですがソースは不明なので、何とも。それにここのジャック・ザ・リッパーとは何の関連もありませんしね」


そんな話をしながらページの最後まで読み進めていく。資料の前部分ではまとめるに当たって書き足したと見られる犯罪心理学を中心とした考察がなされていたが、実際の事件のまとめとなると具体的な話が多く挙げられていた。「『ロンドンを恐怖のどん底に突き落としたジャック・ザ・リッパーは、前代未聞の社会不安を引き起こした点から、悪の総本山・モリアーティ教授に繋がっていると私は確信している』…」モリアーティ教授。彼までこの世界に存在しているのか。これは一筋縄ではいかなそうだ。敵がジャック・ザ・リッパー一人じゃないことがわかり頭が痛くなる。それと同時に、形容しがたい高揚感が湧き上がるのを自覚していた。


「モリアーティ教授って?」
「ホームズの宿敵です。ロンドンの暗黒街を支配下に置き、ヨーロッパ全土に絶大な影響力を及ぼしていると言われている、犯罪界のナポレオン…」
「……」


にわかに場の空気が重くなったのを感じながら、このあとのことに思考を巡らす。……そうだ。あることに思い当たり顔を上げると、僕を見上げるさんと目が合った。


「白馬くん、ちょっと楽しそうだね?」


にやけた口を隠しながらそう指摘したさん。表情は明るい。一方、僕は内心動揺し、バツが悪くて肩をすくめるのだった。


「すみません。緊張感はあるつもりなんですが」
「えっごめん、責めたわけじゃなくて!」


「楽しそうで何よりだよ!」慌てた様子のさんに苦笑いする。どうも自分の気分の起伏を指摘されるのはむず痒い。理由までバレてしまっているからなおさらだ。顔を隠すように踵を返し、さっきまで見ていた雑記帳を手に取る。確認し終えた部分から更に読み進めていくと、やはり、目的の人物の名前を見つけることができた。


「モリアーティ教授はなかなか姿を現さない黒幕……彼でなく、彼に繋がる人物と接触を図りましょう」
「と、いうと?」
「セバスチャン・モラン大佐です」


雑記帳が全員に見えるよう振り返る。「モラン大佐はモリアーティ教授の腹心の部下。彼から情報を引き出せる可能性はあります」へえ、と感心したように零すさんたち。その反応を見て、先ほど考えていたことを確信する。これはシャーロック・ホームズを熟読している自分でこそ難なく辿れる推理だ。もし僕がいなかった場合、モリアーティ教授の名前からモラン大佐を連想することは難しいだろう。そんな不親切なシナリオを工藤先生が考えるだろうか?だとすると、ホームズがいないことはノアズ・アークの妨害と考えられる。お助けキャラはやはりホームズだったのだ。


「…ホームズのメモによると、モラン大佐が根城にしているのはダウンタウンのトランプクラブだそうです」


先ほど見つけていた地図を広げ、位置を確認する。ビッグベンを横切る形で南下した場所にある店らしい。これなら今すぐ出れば夜の間に着くだろう。地図を持ち、すぐに向かうことを提案すると全員が頷いた。「白馬くん、この資料持ってく?」「荷物になっても困りますし、置いていきましょう。…この写真だけ頂いて」証拠品の指輪が映されたモノクロの写真を紙から剥がし、ジャケットの内ポケットにしまう。


「さて、ハドソン婦人が来ないうちに行きましょう」


入り口のドアへと向かう。無事モラン大佐には接触できるだろうか。またノアズ・アークに妨害される可能性はゼロではないのだ。

ノアズ・アーク。その名には聞き覚えがあった。アメリカの天才少年、サワダヒロキくんが開発していた人工頭脳の名前だ。サワダヒロキくん自身は二年ほど前に投身自殺し亡くなったと報道されていたはずだが、人工頭脳は完成していたのか。しかしなぜ今こんなところに現れるんだ。
ゲームが始まる前にも考えていた。ルール説明の際、彼は脈絡なく「ヒロキくん」の名を出していた。おそらくゲーム外の大人との応酬の一部だとは思うが、あの物言いはまるでヒロキくんの命は理不尽に失われたかのようだった。
ヒロキくんはコクーン開発会社のシンドラーカンパニーの社長によって開発室を与えられていた。ならばこの状況は社長が意図したものか?しかし日本のリセットに何の意味が。シンドラー社長でないとしたら、バックにいるのは……。

さんや紅子さんたちが先に出ていく中、ふと、振り返る。


「…秀樹くん?」


ピクッと肩が動いたのを確認する。背を向けた秀樹くんと滝沢くんが、ホームズの机付近で何かをしていたのだ。振り返った彼らの表情を注意深く観察するが、何食わぬ顔で目を合わせられる。


「ん?なに」
「…いえ。すぐに出られますか?」
「うん。行けるぜ」


目を細め笑う秀樹くんに無意識に顎を引く。疑心暗鬼になっているのか、とも思う。しかし疑わしい点はいくつかあるのだ。


彼は本当に諸星秀樹なのか?


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