ビッグベンを離れ無事ベイカーストリートへと辿り着いたわたしたちは、白馬くん先導の元、ホームズとワトソン博士の下宿先である221bのドアを叩いていた。カンカンとドアノッカーを鳴らすと間を置かず女性の声が返ってきて身を硬くする。ドアを開けて出てきたのは、濃い紫のドレスに身を包んだ女の人だった。金髪のお団子を頭に作り頬の小じわが可愛い妙齢の女性。名乗る前にピンと来ていた。ハドソン婦人だ!


「こんな遅くにどちら様?」
「夜分に申し訳ありません。ホームズさんにご相談がありまして」


白馬くんの切り出し方は自然だ。この世界でプレイヤー以外の人に話しかけたのは初めてだったけれど、やっぱり現実の世界と同じようにスムーズなやりとりがなされていた。本当に、こんな状況でなければ心から楽しいゲームだったのに。「ホームズさん?」もったいなく思っていると、ハドソン婦人の芳しくない聞き返しが耳についた。困ったように頬に手を当てた婦人に雲行きの怪しさを覚える。


「ホームズさんとワトソン博士は出張でいませんよ?」
「えっ!」


思わず声に出してしまった。わたしだけでなく、後ろに隠れていた諸星くんや滝沢くんたちにも動揺は走ったようだ。紅子ちゃんでさえ眉をひそめて婦人を見据えている。ホームズがいない、……ということは、やっぱりホワイトチャペル地区にいたのかも。懸念していた事態になりどっと疲労感が募った。いくらショートカットしたといえど、スタート地点からそれなりの時間歩いた。あれを引き返すとなると、骨が折れるぞ…。
判断を仰ぐべく隣の白馬くんを見上げる。「出張とは、どちらへ?」しかし彼は思ったほど落胆していないようだ。そっか、どこに行ったか聞けるなら無駄じゃないよね!すぐ諦めずに情報を引き出そうとする白馬くんの姿勢に何度目かの尊敬の念を抱く。


「ダートムーアという田舎に」
「ダートムーア……、…!すみません、今日は何日ですか?!」
「九月三十日よ」


「九月三十日……」そう零した、白馬くんの顔が強張ったのがはっきりわかった。「どうしたの?」ダートムーアという地名に見当もつかないわたしは、苦虫を噛み潰したような表情で考え込む彼に問う。心配だ、何かよくないことでもあったんだろうか。顎に指を当て俯いていた白馬くんが、やっぱり言いにくそうにわたしを見遣る。


「バスカヴィル家の犬ですよ」
「え?」
「…あ、すみません。さんにはまだ貸していませんでしたね」


「『バスカヴィル家の犬』という長編小説があるんですが…この話では、九月末からホームズとワトソン博士はロンドンを離れるんです」そう言って頭を押さえる白馬くん。…白馬くんの言っていることを、まとめると。この世界のホームズたちは、『バスカヴィル家の犬』時点の二人で、さらにそのお話では九月三十日はロンドンにいない、と。え、ええ…それ、まずいんじゃあ…。


「そういえばジャック・ザ・リッパーの第三、第四の事件は九月末でしたね。日付まで合わせてくるとは…」
「で、でも工藤先生いじわるすぎない…?」
「いえ、おそらく…」


白馬くんが何か言おうとしたのを、「てことは、ホームズには頼れねえってことかよ?」階段下にいた諸星くんの声が遮った。彼らに振り返り、口ごもる。その通りだ。ロンドンを離れてるってことは、ホワイトチャペル地区ですらない。そう簡単に会えるものじゃないはずだ。少なくとも、白馬くんが考え込んでしまうくらいにはホームズの力を借りることは絶望的なのだ。
ホームズじゃないとしたらこのオールド・タイム・ロンドンのお助けキャラは誰だっていうんだろう。それに、現実のジャック・ザ・リッパーと空想のシャーロック・ホームズをこんなに混ぜてるのに、肝心のホームズが存在しないなんてちょっと、変じゃないか?


「あら、あなたたち…二週間前の事件で、ホームズさんに協力して大手柄だったそうね?」


突然、ハドソン婦人が調子を変えてそう言い出した。思わぬ話題に目を丸くするわたしたち。…二週間前?何のことだと思考を巡らせるも、答えが出る前に彼女の視線の先が先ほど後ろから話に入ってきた諸星くんたちに合わされていることに気付く。しかしながら、当の本人たちも訳がわからずきょとんとしてるではないか。


「気付かなくてごめんなさいね。さあさ、お上がりなさい。温かいミルクティーでも入れて差し上げますよ」


笑顔で室内へと招くハドソン婦人に顔を見合わせる面々。…誰かと間違えてる、のかな…?開け放されたドアと諸星くんたちを交互に見ても、見当もつかなかった。


「…なるほど、ベイカーストリートイレギュラーズのことですね」
「…あ、ああ!それかあ」


白馬くんのセリフで合点がいく。ベイカーストリートイレギュラーズとは、ホームズが雇った浮浪者の子供たちのことだ。事件の調査の段階で、大人だと怪しまれてしまうようなことをやってのけ、ホームズに有益な情報を持ってくる勇敢な子たちだ。読んでた話の中でも出てきたのでわたしでもわかった。


「プレイヤーがそのポジションなのか、単にハドソン婦人が勘違いをしていて彼らは別に存在するのかは不明ですが…好都合です。中に入れてもらいましょう」


好戦的な表情を見せる白馬くんに頷く。これはラッキーだ。ハドソン婦人のあとに続くようにしてドアをくぐると、電球色の明かりに照らされた屋内が広がっていた。「ねえ、ベイカーストリートイレギュラーズって何なの?」後ろを歩く紅子ちゃんに問われ振り返る。そうだ、紅子ちゃんたちにはわからないことだらけだろう。二人でぽんぽん納得してたことを恥じ、彼女たちにホームズが不在の理由やベイカーストリートイレギュラーズのことを説明すると、ポケットに両手を入れて歩く諸星くんはふーんと興味なさそうに相槌を打った。前を歩く白馬くんが肩をすくめる。


「もしかしたら、僕らだけではベイカーストリートイレギュラーズと認識してもらえなかったかもしれませんね。さすがに大きすぎますし」
「あ、確かにね」
「なのでここに入れたのは秀樹くんたちのおかげですよ」


白馬くんがそう言って諸星くんたちにお礼を述べると、諸星くんは「だろうな」と薄く笑った。白馬くん相手でも不遜な態度は改まらないらしい。彼の大物っぷりに再度呆れたところで、彼以外の少年三人がいい顔をしてないのに気付いた。無意識に首を傾げると、紅子ちゃんがくすりと笑う。


「遠回しに子供扱いされて不服なんでしょう」


「子供って言われて口を尖らせるのは、子供の証拠」わたしにだけ聞こえるように囁いた紅子ちゃん。滝沢くんたちのことを言ってるはずなのに、そのあとどこか自嘲気味に目を伏せた表情に何か問いたくなる。

それに。ちらりと、後ろに続く彼を見遣る。一人だけ違う反応をしてみせた諸星くんは、その理屈でいくと大人ってことになる。けど、それとはまた違う気がした。まるで本当に、自分の手柄のように満足げに笑った彼に、わたしはうっすらと違和感を覚えるのだった。


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