現実のジャック・ザ・リッパーの犯行はホワイトチャペル地区に集中していること、三件目と四件目の事件が同日に起こることを踏まえ、今夜はここに留まるという案も一応あった。けれどわたしたちはほとんど全員が先ほどの事件現場を目撃したことによる心的疲労を感じており、また現場を目撃したいとは思わなかった。時間がかかっても移動してお助けキャラのホームズの力を借りたいという諸星くんたちの意見に白馬くんや紅子ちゃんも同意し、わたしたちはベイカーストリートへ移動することになったのだった。


「白馬くんは距離的な問題でずっと考えてたんだね」


イギリスでの留学生活が長かったことからロンドンの大まかな位置関係は頭に入っているという白馬くんを先頭に、七人一行は西へと足を進めていた。隣に並び話しかけると、白馬くんは苦笑いで肩をすくめてみせた。


「レストレード警部の名前を聞いてからホームズの存在は期待しましたが、まさか実際の事件と同じホワイトチャペル地区で犯行が行われたとは、思いたくありませんでしたよ」
「何時間もかかるんじゃそりゃー、困るよね」
「ええ。現実的に考えて、移動に長時間かかるのはゲームシステムとしてどうかとも思いますし、ベイカーストリートに行かずともホームズと会える場所があるのでは、とも考えたのですが…確実な場所は思い浮かばず」


確かに、こうしてる間もずっと現実の世界では時が進んでるんだ。参加者の子供たちの両親や祖父母が観客として見てるみたいだから、本来何時間もかかるゲームとは思い難い。それこそ現実の世界で夜が明けてしまう。だとするとロンドンを横断する大移動が果たして正しい判断なのか、渋ってしまうのも無理ないだろう。


「ホームズがベイカーストリートの下宿先にいると仮定し、僕らがそこへ向かうことが必須だとすると、……! 下がって!」
「えっ?」


唐突に左手で制され足を止める。後ろに続いていた紅子ちゃんたちも同じように立ち止まり、「なに?」訝しげに進行方向の先を覗く。わたしたちは今細い路地を歩いているところで、抜ける先の目の前には大きめの通りが横たわっていた。


「マイターストリートの路地裏でまた犠牲者が出たらしいぞ。一時間に二件、これで四件目か…」


わたしたちがいる路地に背を向ける形で立っていた警官二人の会話だった。巡回の最中なのか、片方は懐中電灯であたりを照らしながらどこかへ去っていった。緊張がぶり返すように背筋が凍る感覚に襲われる。白馬くんの言う通り、一日で二人の女性が殺されたのだ。


「やはり実際の事件と同じですね…」
「まだ続くの?これ…」
「ええ。ですが四件目と五件目は一ヶ月以上空いていたはずなので、当分は起こらないでしょう」
「その間に捕まえろってことか?」


頭の後ろで手を組む諸星くんに滝沢くんたちが不安げに顔を曇らせる。そんな彼らを見ながら白馬くんも歯痒そうに「そんなに時間をかけるつもりはありませんよ」と言い、大通りへ足を踏み出した。そうだ、ここは現実の世界じゃない。一ヶ月も二ヶ月も時間をかけるわけにはいかないのだ。気合いを入れ直し、わたしも大きく一歩を踏み出す。


「……は?」


しかし大通りに出た途端、また白馬くんが立ち止まってしまった。今度は何だと慌てて背中越しに覗き込むけれど、特に変なものはない、いたって普通の大通りが広がっているだけだった。
強いて言えば、ロンドンの代名詞、ビッグベンが近い距離にそびえ立ってることくらいだろうか。

「バカな、」白馬くんは慌てたように辺りを見回し、通りの名が英語で記された標識を見つけるなり目を丸くして立ち尽くしてしまった。「は、白馬くん…?」さすがに不安になって声をかけたらすぐに我に返ったものの、その様子には明らかに動揺が見て取れた。


「あ、すみません、驚いてしまって…」
「何かあったの?」
「…ええ…」


そう言って疑るように見上げた先は、景色において一際目立つ建築物である、ビッグベンだった。大きな時計盤は0時50分を指しており、下からのライトアップを受けて真夜中にもかかわらず圧倒的な存在感を放っていた。


「ビッグベンがあっちゃいけないの?」
「はい。あれが見えるこの大通りはホワイトチャペル地区から数十分歩いた程度で着く場所じゃありません。それに方角的にもズレている…僕はテムズ川を離れるようにベイカーストリートを目指していました」


そのはずが、すぐ東にテムズ川がある通りに来てしまっていると言う。つまり白馬くんが想定してなかった場所に来てしまったのだ。単に迷ったんじゃなくて?と問う紅子ちゃんには首を振り、ほぼ西へ直進していただけだからこの大通りに着くはずがないと答えた。じゃあ一体何が起こったんだろう。ロンドンの地図が歪みでもしたんだろうか。奇妙な展開に口をつぐみ、辺りを見回す。


「…? おい、あの時計おかしくねえか?」


沈黙を破るように声をあげたのは諸星くんだ。彼の指差した先のビッグベンを全員が見上げる。さっき見たのと変わらない、テレビで見たままの時計台だ。「どこが…」菊川くんが言い切る前に、時計盤の長針が動いた。反対周りに。


「えっ?!」
「針が戻った…?!」


全員がどよめく。ビッグベンの異変に気付いたのは周囲にはわたしたち以外におらず、各々顔を見合わせるばかりだ。故障?ゲームの中で?そうこうしてるうちに針はさらにもう一つ戻り48分を指す。なになに、何なの?!いよいよ不気味だ。置かれた状況が状況だからか少しのことでも震え上がってしまう。


「50から減っていく…ゲーム参加者の人数のようですね…」


白馬くんの声に改めて時計盤を見る。確かにこのゲームの参加者は五十人だ。それが今、48になったということは…。


「別のステージで二人、ゲームオーバーになったってことね」


確認するように呟いた紅子ちゃんにごくりと固唾を呑む。こんな風に現実をまざまざと見せつけられ、焦燥感に襲われる。あれが0になったら、わたしたち……。
無意識に指を絡めぎゅうと握り込んでいた。ふっと、柔らかく被せるように手が重なる。


「焦りは禁物です、さん」
「白馬くん…」


見上げると、白馬くんが安心させるように笑いかけてくれていた。重ねられたのは白馬くんの左手だった。


「先ほどは取り乱しましたが、移動距離のショートカットとビッグベンの意味を考えたらここに来させられたのも納得が行きます。ベイカーストリートに近づいたのは事実ですし、このまま北西に向かいましょう」
「…うん…!」


白馬くんはすごい。同じ立場なはずなのにこの落ち着きようだ。やっぱり高校生探偵は、こういう未知の事態に慣れているのだろうか。また爛々とした目をしている彼を見上げながら思った。

気を取り直して歩き出した一行は変わらず白馬くんを先頭にベイカーストリートを目指す。真夜中といえど人通りはそこそこあり、馬車が行き交う様子も見られる。百年前どころか現在のロンドンですら見たことがないけれど、今目の前に広がる外国の街並みには確かに心躍るものがあった。


「まったく、こんな事態でなければ心から楽しめたというのに…」


斜め前を歩く白馬くんがそう零したので、顔を上げると彼も首を向けて苦笑いをした。さっきからどこか目を輝かせてるときがあるように見えたのは気のせいじゃなかったようだ。言われてみれば、白馬くんを知る者からすると彼の気持ちはよくわかるぞ。


「ホームズに会えるんだもんね!そりゃわくわくするよ!」
「ええ…人の命がかかっている手前、はしゃぐのは不謹慎なんですが」
「白馬くんもはしゃぐんだね…!」


想像できないなあ見てみたい!思ったことが顔に書いてあったのかわたしを見下ろした白馬くんはあっと気まずそうに目を逸らして、「言葉の綾です」と断りを入れた。それを見てさらににやにやしてしまう。これは本当にはしゃぐぞ…?!ホームズを目の前に、白馬くん大はしゃぎするぞ…?!不謹慎かと思いつつわたしの心は先にはしゃいでいて、ぴょんぴょん飛び跳ねたいほどの高揚感だった。どこからか聞こえるアコーディオンの音楽に合わせて踊り出してしまいそうだ!

ん?アコーディオン?


「……?」


白馬くんが眉をひそめ進行方向を見据える。アコーディオンの音楽は向かいから歩いてくる長髪のおじさんの手元から流れていた。赤いアコーディオンを弾くその人は髭を生やしてハットも被ってるため顔はよく見えないけれど、ロングコートや服は薄汚れていて、浮浪者、という言葉がぴったりだった。音楽は陽気なものなのに、弾いているおじさんの醸す雰囲気はどこか不気味だ。
さりげなく避けるように誘導する白馬くんに従い建物側に寄って歩いていると、近くまで来たところでおじさんが音楽に合わせ口ずさみ始めた。


「ジャック・ザ・リッパーに気をつけろ
 夜道でおまえを待ってるぞ
 死にたくなけりゃ どうするか
 おまえも血塗れに なるこった」


歌詞の内容に心臓が凍りつく。瞠目したままおじさんを凝視してしまう。すれ違いざま合った目にいよいよ震え上がり、バッと逃げるように俯いた。


「どういう意味かしら…」
「やられる前にやれってことじゃねーか」


通り過ぎたあと、菊川くんと諸星くんのひそひそ話の間も後ろからアコーディオンの音は聞こえていた。今の人は何なんだろう。この世界の人とは思えないくらい浮世離れしているように見えるのは、ただわたしが浮浪者という人たちに馴染みがないからだろうか。それにしたって、あの歌詞はどう考えてもわたしたちに向けて歌っていた。不気味だ。何か良くないことを暗示してるみたいだ。

かろうじて歩く足もおぼつかない。全身に響く心臓の音の中、ガコンと、針の戻る音が聞こえた。


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