『シャーロック・ホームズ』は長編と短編がまざる超大作らしい。少し前に借り始めた文庫サイズのそれを白馬くんに返し、同時に五冊目を借りたのは昨日のことだった。今回は短編集ですよと言って渡された本の表紙には『シャーロック・ホームズの冒険』と書いてある。タイトルから何となくの話の雰囲気を想像しながら、ありがとうとお礼を返した。昨日は帰りの電車で寝てしまったので、まだ読んではない。

緋色の研究、四つの署名と長編を読んできてちょっと疲れたというのが正直な感想で、それを肩をすくめて伝えると白馬くんはゆっくりでいいですよと、わからないところがあれば何でも聞いてくださいと言ってくれた。優しい読書ガイドにうんと頷いて笑う。「ぜんぶ覚えてるの?」「もちろん」笑みを深く即答した白馬くん。すごいなあ。彼の頭の良さとシャーロック・ホームズへの愛の深さをしみじみと感じた朝だった。

翌日の土曜、外が暗くなる頃支度を終えたわたしはスクールバッグから例の本を取り出していた。昨日の朝のうちに付け替えたブックカバーをファイルと筆箱に挟まれた位置に見つけ、手を伸ばす。短編集って言っても事件が起こるなら数ページで終わるはずがないし、何話くらい入ってるんだろう。ふと気になって確認したかったのだ。目次を開き、縦書きのタイトルに目を走らせる。ボヘミアの醜聞、赤毛組合、花婿失踪事件、ボスコム渓谷の惨劇、オレンジの種五つ、唇のねじれた男、青い紅玉、まだらの紐……ほほう、と人知れず口元がにやけてしまう。もともとミステリーは人並にすきだったので、事件とリンクしてるであろうタイトルを見るとわくわくしてしまう。楽しみだなあ、お迎えが来るまで読んでようかな。
パラパラとめくり、大きめのサイズで『ボヘミアの醜聞』と書いてあるページに辿り着く。一番最初の短編だ。今回の始まり方は……


!白馬くんが来たわよー」
「!、はーい!」


もう来たのか!パッと壁掛け時計を見上げると確かに約束の五分前だった。いかんいかん、このあと紅子ちゃんとも待ち合わせしてるのに待たせるわけにはいかない。もう一度広げたページに目を落とし、パタンと閉じる。
ある人名が目に焼き付いた。


「……アイリーン・アドラー?」


何だっけ、確かオペラ歌手、だっけ。随分前に白馬くんとスキーのペアを組んだとき、そのキャラクターの仮装をしたのを覚えている。そういえば今まで出てきたことなかったなあ、今回初めて出るんだ、どんな人なんだろう。
気になるけれど、持って行ったところで読む時間はないだろう。スクールバッグにしまい、ベッドに置いておいた小洒落たポシェットを持って部屋を出た。


「ごめんおまたせ!」
「いえ、大丈夫ですよ」


「こんばんは、さん」家を出てインターホン近くに立っていた白馬くんを見た瞬間わあ、と目を丸くする。白馬くん、薄い灰色のスーツを着ているのだ。中も同じ色のベストと黒に近い濃い色のシャツで大人っぽく決まっている。背高くて足も長くて、おまけにお顔も大層整ってるものだから、ほんとに何着ても似合うなあ。と、わたしが褒める前に白馬くんはにこりと首を傾げた。


「素敵なドレスですね。お似合いですよ」


ハッとして、はにかむ。わたしも珍しく綺麗なカッコをしてるのだ。何たってこれから、パーティに行くのだから。





途中の駅で紅子ちゃんを拾って(家まで迎えに行きますよと言った白馬くんになぜか紅子ちゃんは頑なに遠慮し続けていた)、到着した会場は米花シティホールだ。エントランスを抜けた正面にある大広間の他に、向かって左側にはステージがひな壇状になっているホールがあり、吹奏楽のコンクールなどにも利用されてるというのはテレビで見たことがあって知っていた。
エントランスではテレビ局や新聞社のマスコミが大勢待機していた。改めてこのパーティの規模の大きさにおののくわたしは例によって白馬くんの同伴者としての参加なのだけれど、場違い感は拭えない。すごい、全国放送のTMSテレビのカメラまであるよ。


「これ、ゲームの完成披露会よね?」
「ええ、そうですよ」
「それにしては大袈裟すぎない?」


深緑色のフォーマルドレスに身を包む紅子ちゃんはその上からクリーム色の半袖カーディガンを羽織っている。袖から覗く二の腕を抱き込む仕草をする彼女も度肝を抜かれたらしい。わたしもだよ、まさかゲーム一つでこんなに大掛かりなパーティが開かれるなんて思ってなかった。さすがにテレビに堂々と映るほど胆は据わってないから目立たないようにしたいというのが伝わったのか、白馬くんも紅子ちゃんもなるべく人目につかないよう脇を歩き、エントランスで受付を済ませた。


「それほど革新的なゲームということでしょう。この披露会にこぎつけるまで、産業スパイなどが暗躍したそうですしね」
「へー…なんだっけ、コクーンだっけ?」


白馬くんは頷き、招待状に書いてあったというコクーンの説明をしてくれた。繭型のカプセルに入り、催眠状態の中でバーチャルリアリティの世界を遊ぶという、今までのテレビゲームでは考えられない、最新テクノロジーの粋を集めたゲーム。人の五感を司り、すべての感覚が現実のような世界にプレイヤーは置かれる。電気的に中枢神経に働きかけるシステムが用いられ、身体に害は全くないとのこと。ちゃんと聞いても信じがたい。そんなことが本当にできるんだ、やってみたら楽しそうだなあ。


「それで、どんな世界を遊べるの?」
「まだ明らかにされてないみたいですよ。今日参加して初めてわかる、スニークプレビュー…覆面発表会だそうで」
「えー、めっちゃ楽しみじゃん!白馬くん感想聞かせてね!」


ええ、と頷いた白馬くんの胸元でバッジが光る。コクーンを模したデザインになっているそれは、史上初のコクーン体験者であることの証だった。高校生以下の五十人の子供が選ばれるとのことで、白馬くんはその選ばれし者なのだ。本人としてはあまり乗り気じゃないらしいのだけど、警視総監の息子ということで招待状が届いたので父の顔を立てる意味で参加を決めたのだそう。ちなみに当のお父さんは欠席なんだと。


「白馬くんってゲームする?」
「ほとんどしませんね…」


ビリヤードなんかはすきなんですが、とサラッとこぼす白馬くん。想像してときめいてる間に、紅子ちゃんが「似合いそうね」とこれまたサラッと返した。


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