学校指定のジャージの上にスキーウェアを着て、さあ行くぞと意気込んだのが一時間前のこと。すでに数え切れないほど転んだわたしは早くもここに来たことを後悔していた。ゲレンデの隅でしゃがみこみ、はああと盛大な溜め息をつく。ここまで難しいものだとは思ってなかった。認めます、正直なめていたことを。 「紅子ちゃん付き合わせてごめん…」 「それは構わないけど……もう少しで滑れるようになるんじゃないかしら?」 「そうかなあ…」 わたしとしてはもうロッジに退散したい気分だった。スキー教室という名の今日はスキーを思う存分楽しむのも良し、ロッジで温泉に入ってまったり過ごすのもよしという一日自由時間というプランである。さすがに最初からロッジに入り浸るなんていうのは先生にお咎めを食らうだろうけれど、わたしだってそれなりに努力したんだし許されてもいいんじゃないかと思う。 「ごめん、やっぱりロッジ戻る……。もう身体のあちこちが痛いので」 「そう…?じゃあ私も、」 「あかこちゃん…!」 わたしに合わせてくれるのか、優しい彼女に感動して打ち震えていると、上のほうから誰かの絶叫が聞こえてきた。反射的に振り返り見てみる。その人物はものすごいスピードで滑り降りているではないか。そんな勢いつけなくても、と目で追っているとそれはなんと青子ちゃんで、本人の予想通り初心者の彼女はスイスイっと上達しなかったようだ。すぐに身体がふらふらしだして、進路上にいた人物と盛大にぶつかった。わっと声を上げたわたしとは反対に、紅子ちゃんは静かにストックをぎゅうと握り締めたようだった。それをうかがうように顔を上げると、しかめ面の彼女が見えた。それからまた青子ちゃんに目を向ける。合点がいった。ぶつかった相手は、黒羽くんだったのだ。 普段通りぎゃあぎゃあと喧嘩を始めた二人を見て、ぐうと口を結ぶ。なんか、つらいなあ……。関係ないわたしがこれくらい苦しいんだから、きっと紅子ちゃんはもっと苦しいはずだ。すきな男の子が自分以外の女の子と親しくしてるところなんて、見たくないよ、絶対。 よし!バッと勢い良く、とはいかずよろよろと立ち上がる。それに紅子ちゃんが振り返り、目を瞬かせた。 「?」 「わたし一人でロッジ戻るよ!紅子ちゃんは黒羽くんと滑ってきて!」 「え、けれど…」 「いいからいいから!せっかくのイブなんだから、すきな人と滑るべき、絶対!」 「…。…ありがとう」 紅子ちゃんは柔らかく笑うのも綺麗だ。「も気が向いたら戻ってきなさいね」そう言って彼女はゲレンデの斜面を下って行った。やっぱり上手だよなあ紅子ちゃん。付き合わせて申し訳なかった。思いながら、わたしはバチンとスキー板からブーツを外し、歩いてロッジへ戻ったのだった。 「白馬くん?」 大きなクリスマスツリーが飾られているロビーに戻ると、そこにも割と何人かの生徒が見かけられた。元々今日は二学年全クラスがここに来ているので、一定数ロッジに人がいるのも納得だろう。残念ながら女友達は見つからなかったので、寂しいけど一人で二階のカフェテリアに行こうかなと思案していたところで、ロビーを出て行く白馬くんを見つけたのだった。 なんと彼はすでにウェアを脱いでジャージ姿に戻っており、ぱっと見今日何をしに来たのかわからないほどアウトドア感がうかがえなかった。わたしに気付いて名前を呼ぶ白馬くんに駆け寄る。 「白馬くん、スキーやらないの?」 「やりましたよ。三十分ほど上の方で何人かと。もっと上に行くと言っていたので抜けて来たんです」 「上の方…」 「上級者コースだったみたいですよ。多分滑れないこともなかったんですが、あまり魅力を感じなかったので」 「そっかあ。でもわたしも切り上げて来ちゃったし、あんま人のこと言えないや」 そう言うと白馬くんはふっと笑って、「さんは紅子さんと?」と聞いた。それに頷き、さっきのくだりを説明する。もちろん紅子ちゃんが黒羽くんをすきなことは言えない。そこは紅子ちゃんはとても上手だし滑り足りないだろうと思ってとか何とか言って誤魔化した。鋭い白馬くんにバレなかったようなのでとりあえずはセーフだろう。 「そうですか。ではこのあとは…」 「うーん、どうしようかなと思ってる」 「でしたら、カフェテリアでご一緒しませんか?」 「え!行く!」 なんと白馬くんからお誘いいただいた!元々考えていたことだしドンピシャだ、断るわけがない。二つ返事で頷くと白馬くんも嬉しそうに笑って、ではとわたしの背中に手を添えてエスコートした。前に車の乗り降りのときも思ったけれど、彼の優雅な動作はやはり英国仕込みなのだろうか。照れざるを得ないよ。 カフェテリアは暖房がガンガン効いていて暖かかった。外は寒くて凍えていたので候補その二として温泉に行くのも考えていたけれど、ここにいればその必要もなさそうだ。なにせ温泉は混浴らしいとの恐ろしい噂を耳にしていたので、できれば避けたいことだったのだ。 抹茶ラテとコーヒーをそれぞれ買って、向かい合って席に着く。丸テーブルにカップを置いて両手で包むと、冷えた指先にじんわりと感覚が戻ってくるようだった。ホッと息をつく。と、白馬くんが「ちょっとすみません」と言ってポケットから携帯を出し何やら操作し始めた。こんなことは今までに何度もあったのでもう慣れっこだ。十中八九、事件についての連絡だろう。最初のほうは少しいいですか?と伺っていた彼も、わたしが聞かなくて大丈夫だよと何度も言っているうちに断りを入れるだけに簡略化されてきた。もちろんそれに対しての不満はない。むしろ気の置けない仲になっていっているようで喜ばしいことだった。 顎に手を当て思考しているらしい白馬くんに形式美として事件?と聞いてみると、ええ、と予想通りの返事が返ってきた。日本に腰を落ち着けるようになった白馬くんは最近積極的に事件の依頼を受けるようにしているらしい。携帯から目を離しわたしを見据える彼は探偵の顔つきだ。 「最近都内で連続殺人が起きているのはご存知ですか?」 「え、そうなの?」 「はい。僕もこの間から捜査協力をしているんですが、犯人の足取りが掴めていなくて。それで今、第三の殺人事件が起きたとの情報が入ってきたんです」 「え、えと…」 そんな物騒な起きたてほやほやの最新情報を受け取っていたとは。わたしはてっきり民間人の依頼内容かとばかり…。どういうリアクションを取ったらいいのかわからずどもると、白馬くんは興味深そうに携帯の画面に視線を落とした。 「あ、でも模倣犯?かもとかは…」 「いえ、それはないでしょう。実は警察がマスコミに発表していない事件の共通点があるんです。今回の事件もそれと一致したようですし、まず間違いないかと」 「そ、そっか……早く捕まるといいね。って白馬くんに言うのも変か」 「いえ、大丈夫ですよ。おそらくもうすぐに捕まるでしょう」 自信ありげに答えたあと、白馬くんはふっと目を伏せて、「できれば三人目の被害者が出る前に、そうしたかったんですがね」と言った。それをじっと見て、なんだか居た堪れない気持ちになる。きっと白馬くん、こんなところに来てる場合じゃないんだろうなあ。今日が終わったらすぐにでも事件現場に駆けつけるんだろう。もうあと一週間で今年が終わるのに、白馬くんは大忙しだ。 ……よし、せめて年越しはゆっくりお家で迎えられるように、わたしは今年最後のお願いをしておこう。 「…? 何をしているんですか?」 「白馬くんが大晦日ゆっくりできるように祈ってるんだよ」 「……ふっ…ありがとうございます」 探偵の顔つきから一変、眉尻を下げて笑みを零した白馬くん。事件で頭がいっぱいかもしれないけど、彼が今日という日をちょっとでも楽しめたらいいと思う。だって、せっかくのクリスマスイブなんだから。 |