先週で終わった試験の答案用紙は、今週からぽつぽつと返ってきている。どの科目の点数もぱっとしなくてちっとも面白みはないのだけれど、戯れにアイスを賭けた犬飼との勝負に一喜一憂するのは楽しかった。彼とは去年からどっこいどっこいの学力なので、大抵拮抗するからはらはらしていい。どんな模試よりも正確に実力を測ることができるのだ。もう少しで夏休みに入ってしまうから、まだ採点が終わってない科目は休み明けの返却になるのかな。早く合計点を出して決着をつけたい。

 その犬飼と教室で別れたあと、一人学校を出て家ともボーダーとも違う方向へ歩いていく。最寄りの停留所から出ているバスに乗車し、学生で混み合う車内でつり革を掴んで、誰の目にも留まりたくない人みたいにおとなしく身を縮こませる。年に一、二回くらいしか乗らない路線は今日も緊張する。一駅停まるごとに、停留所の名前を確認してしまう。車内は空調が効いていて涼しいのに、プラスチックのつり革を握る手がじんわり汗ばんでいるのが、なによりの心の表れだろう。
 今日は、オペレーター仲間の摩子ちゃんと倫ちゃんと、パンケーキを食べに行く約束をしている。三門市に最近できた今風のお店で、ふわふわのパンケーキと豊富なトッピングが話題らしい。この間の防衛任務が東隊と荒船隊との合同だったので、終わりがけに誘ってもらえたのだ。学校も違うし、B級といえどグループが違うから試合で当たることは滅多になく、すごく仲がいいなんて滅相もなくて言えないけれど、間違いなくすきな友達だ。回線を通した「ちゃんもどう?」とのお誘いにだって当然、二つ返事で答えた。

 そわそわしながら二十分ほど揺られていると、目的地付近のバス停に到着したらしい。大勢の生徒が乗車してくるのを横目に、前方の降車口から降りる。[三門市立第一高校前]という表示板の向こう側に、その建物が見える。アウェー感はいつまで経っても拭えない。事実、自分の学校じゃないんだから仕方ない。最後に来たのはいつだっけ。記憶を掘り返しながら信号を渡り、塀に沿って歩いていく。放課後になってから三十分以上は経った現在もすれ違う生徒の姿は多く、白いセーラー服に紛れ込めない半袖のワイシャツとネクタイの夏服が、注目を集めてしまっている錯覚に陥る。人の話し声に、聞き耳を立ててしまう。正門で待ってるって言ってもらったけど、もしまだなら待たなくちゃいけない。この格好だと否が応でも目立ってしまうことを考えていなかった。
 途端にロボットよろしく、ぎこちない動きになる。無意味にスクールバッグを肩にかけ直してみる。そんな羞恥心や心配も、校門が見える通りに出て、目的の人物の姿を捉えるなり終わりを告げた。ちょうど校門の横で待ってくれていたらしく、塀沿いに倫ちゃんと摩子ちゃんが並んで立っているのが見えた。杞憂でよかった。身体に巻きついていた緊張や視線が一息で吹き飛び、軽くなった心に頬が上がる。


「あっ、……?」


 声をかけようと口を開くなり、摩子ちゃん越しに男子の姿がちらついた。正門は待ち合わせに最適だから、他のグループだろうか。最初によぎった考えは、近づいていくうちに間違いだとわかる。だってそりゃあ、摩子ちゃんの上から頭半分くらい見えてるもの。


「あっ、ちゃん」
「来た?」


 手前にいた倫ちゃんが一番に気付いてくれた。覗くように首を傾げた摩子ちゃんに続き、お待たせしましたと言い、へこっと会釈をする。それから、彼女たちの奥に立っていた彼に目を遣る。


「やあ」


 笑顔で手を挙げた一彰に、控えめに手を振り返す。まさに、年に一、二回ここを訪れていた理由の人物だ。わたしを待つ一彰に、違和感がないといえば、ない。でもどうして今?と考えてようやく、三人が今年同じクラスだということに思い至った。


と待ち合わせするって聞いたから、ご一緒させてもらってたんだ」
「そうなんだ……?」
「今日ボーダーにいるから、帰るときに連絡してよ。一緒に帰ろう」
「え、大丈夫だよ」
「ぼくが心配だからさ」


 流暢に出てくる一彰のお誘いに、心配しなくても大丈夫なのになと思ったのだけれど、問答無用にさあさあと押し流される映像が脳内で再生されて、なんだかわかってしまう。きっと断っても断りきれないんだろう。たぶん一彰は、これを伝えるために待ってくれていたのだ。まさか一緒にパンケーキを食べに行くなんて言い出すんじゃないかと一瞬焦ってしまったけれど、それこそ杞憂でよかった。
 結局早々に折れ、お店を出る前に連絡する約束を取り交わした。それじゃあと、用件が済むなり満足したように連絡通路の方角へ踵を返す一彰。有無を言わせない背中をどういう顔で見送ればいいのかわからず、安堵とも呆れともいえない中途半端に上がった口角のまま、彼を見送る。隣からの生暖かい視線を感じながら。


「王子くんって世話焼きよね」
「うん……」


 深い意味はないんだろうけど、摩子ちゃんの台詞にはつい恥ずかしくなってしまう。彼女にそう思わせることをされているのは否定できない。一彰は基本的に親切なので、長い付き合いの幼なじみのことも気にかけてくれる。それが当然で、変なことではないと、たぶんお互い思ってる。だから否定しない。
 改めて、遠ざかる一彰の背中を見つめる。今度は複雑なんかではなかった。わたしの、せまい交友関係の中でも一彰は一等特別だ。かけがえのない存在だと思う。彼より近い位置に誰かが来ることを、今は想像もできない。なのにどうしてときどき、こんな風に、途方もない気持ちになるんだろう。




◇◇




 パンケーキ屋さんはウッド調の壁面にアンティークの装飾品が並ぶ落ち着いた雰囲気の内装だった。かわいいねとひとしきり褒めたあと、メニューに並ぶパンケーキのページを三人で囲む。みんな甘いものがすきなので、夕飯前なのも気にせず試験を乗り切ったご褒美として一人ひとつずつ注文することに決めていた。分けてもよかったけれど、一人占めして食べるスイーツというのは格別なのだ。各自食べたいものを頼むことに、反対の声は上がらなかった。
 話題なだけあって運ばれてきたパンケーキは絶品だった。ふわふわのそれをもったいぶるように食べながら、女子高生ならではのおしゃべりに興じる時間は楽しい。倫ちゃんの美大進学の話や摩子ちゃんの新作ホラー映画のレビューを興味津々で聞いていたら、あっという間にパンケーキは胃の中へ消えていき、日もすっかり暮れてしまった。
 窓から見える空が暗くなっていることを口にした摩子ちゃんは、それから丸テーブルを囲むわたしたちに向き直った。彼女のホットミルクはすでになくなっていた。


「そろそろ帰る?」
「うん、そうだね」


 隣の倫ちゃんの了承を耳に、スクールバッグから携帯を取り出す。「あ、そっか、王子くん」うん、と画面を見ながら頷き、上から二番目の一彰へのメッセージを開く。ここからボーダーはそんなに遠くないけれど、送ったらすぐに気付いてくれるだろうか。


「一彰待つから、先に帰って大丈夫だよ」
「まだ遅い時間じゃないから一緒に待つよ。摩子ちゃんは?」
「大丈夫よ」


 申し訳なさに苦笑いで肩をすくめる。普段からボーダーの防衛任務をやっていると、夜の七時くらいなんてことはない。その感覚はわかるので、お言葉に甘えてお礼を述べた。
 一彰の返信は五分と経たないうちに来た。会計を済ませてさらに待つこと十五分後、入り口のショーウインドウ越しに彼が歩いてくるのが見えた。夕闇に浮かび上がる白い夏服の彼が、目が合うとにこりと微笑んで手を振る。それに応えるように頷いて、立ち上がる。
 木製のドアを開けて出た外は、店内と大違いの蒸し暑い空気が立ち込めていた。太陽はもう見えないというのに、どこにこんな熱が蓄えられているんだろう。今日は風がないから余計、こんな気温の中迎えに来てくれた一彰に申し訳なくなってしまう。


「待たせてごめんね」
「いや、来てくれてありがとう……」


 後ろめたさで語尾が曖昧になる。二人の目線もこそばゆい。摩子ちゃんたちは、わたしたちのことをちゃんと幼なじみとしてしか認識していないのに、二人に見られていると、なぜか気恥ずかしくなってしまう。
 ともかくと平静を努め、先陣を切って帰り道を歩き出す。当然のように隣に並んだ一彰が、すぐ、後ろを歩く摩子ちゃんと倫ちゃんへ振り返った。


「二人の家、あっちのほうだよね」
「うん、そうだけど」
「途中まで送るよ」


 一彰の提案に反射的に振り返る。彼の横顔は、何でもないように、二人の返答を待っているだけだった。
 わたしといえば、確かに頭に浮かんだ言葉があったのに、口にする気はちっとも起きず、ただ、事の成り行きを見つめることしかできなかった。ぱちぱちと瞬きする摩子ちゃんと倫ちゃんは大丈夫だよと遠慮するけれど、一彰はもう暗いからと言って簡易なルートを口頭で示した。たしかにそれなら、家までとは言わずともバス停や近いところまで送れるだろう。それでもためらう二人から一彰は目を逸らし、隣のわたしを見遣った。


「少し遠回りになるけどいいよね?」
「うん」


 断るはずがない。流暢なふりをして頷くと、ようやく二人も、じゃあ、と了承したようだった。「紳士だね王子くん」肩をすくめる摩子ちゃんにありがとうと笑う一彰、を、見ていたくなくて、ちがう、どういう顔をすべきなのかわからなくて、視界から消してしまう。進行方向をまっすぐ見ている自分の目が、何を映したいのかわからない。焦点が合わないまま、心臓がざわついているのだけ、はっきりと自覚する。
 唐突に、あることに気がついてしまい、同時に頬がカッと火照り出す。校門で一彰が言った「ぼくが心配だからさ」は、わたしのことだけじゃなかった。三人のことを平等に気にして、一緒に帰ろうと言ったんだ。それを自分の心配だけをされていると勘違いして、二人にも先に帰って大丈夫だよなんて、すごく恥ずかしい。

 自意識が露呈する感覚に背筋が凍る。自分で自分に驚く。何様だよ。だから、おまえは身勝手なこと言える立場じゃないんだって。
「そうだ、パンケーキどうだった?」さっきまで甘さで満たされていた口内が、次第に苦味を帯びていく。倫ちゃんたちに向けたそれとまったく同じ笑顔で問う、一彰の優しさに区別はないなんて、だとしたって文句は言えない。心の一番近いところにいるはずの一彰が、遥か遠くに感じる。この感覚はどうしようもない。




9│top