思えば、わたしはずっと、彼の善悪基準に倣って生きてきたのかもしれない。一彰は身近であり、年端もいかない頃から同年代の中で際立っていたから、彼に憧れる形で無意識に引っ張られていた気がする。世話を焼き、手を差し伸べ、時にはたしなめる一彰に気後れしたり反抗することもあったけれど、じゃあどうかと判断したとき、自分より一彰が間違っていると思ったことはなかったように思う。一彰はいつだって正しい、そういう認識が、たぶん意識の奥深くに根づいている。自覚したところで、じゃあやめよう、とはならないし、むしろ、だって事実だものと思う。
 でもわたしは一彰になれない。一彰のような、気丈で強かな精神には遠く及ばない。無力感と劣等感にじわじわと蝕まれていく感覚を、初めて経験したのはいつだったっけ。

 昼のランク戦が終わったあとに作戦室を訪ねる約束をしていたので、反省会が終わるなり換装を解いて自分の作戦室をあとにした。今日はいい戦績を残せたので、気が緩まないうちに次回の作戦会議とマップ決めをしていたら、思ったより長引いてしまった。終わったら行くと言ってあるので大丈夫だと思うけど、待ちぼうけさせてたら申し訳ない。とはいえ、向こうも上位のランク戦があったはずだから、こないだみたいなことがなければ蔵内くんたちもいるはずだ。
 今日下ろしたばかりのつっかけサンダルで基地の床を鳴らしながら、一彰の作戦室まで歩いていく。デザインに一目惚れして、ちょっとサイズが大きいことに目をつむって買ったけれど、きっと履いてるうちに慣れるだろう。今はぎこちなく、まるでわざと足音を立てて歩く人みたいに、平たいヒール部分が床にぶつかるたび大きな音が鳴ってしまう。

 王子隊の作戦室の入り口が、珍しく開けっ放しになっているのに気付く。でもまあ、そういうこともある、と深く考えず、室内を覗き込むと、テーブルを挟んでチェスに興じる一彰と蔵内くんの姿があった。


「お邪魔しまーす……」
「あ。来たね」


 振り返った一彰とこちらに顔を上げた蔵内くんに会釈する。二人とも換装を解いているようで、柄は違えど半袖のシャツを身に纏っている。通路と同じく作戦室も空調が効いているうえで、過ごしやすい正しい服装といえるだろう。
 本棚とソファの間を通り抜け、ちょうど一彰が座る真横に立つ。戦況はいかがだろう。わたしが一彰とやっても惨敗ばかりだけど、蔵内くんは上達が早いから一彰も負けたことがあるらしい。
 盤上の駒が少なく感じたので、どのくらい取ったんだろうと目線を動かすと、蔵内くん側に黒のそれが二つ置いてあるのが見えた。じゃあ一彰は、と手元を覗き込もうと右足を踏み出す。
 すると、サンダルが脱げてしまった。バンドの部分に爪先を引っ掛け、明後日の方向にひっくり返るそれを無視してかろうじて裸足で着地する。危なかったとよかったの感情が同時に湧き、とりあえず左足を右足の隣に持ってこようとしたら、今度は右足に引っ掛けてしまった。「わっ?!」不自然についた勢いを殺せず前方へ倒れ込む。チェス盤に向いていた一彰がこちらに目を向ける。


「え――」


 次の瞬間、ガタンとかゴスッとかバラバラとか、いろんな音が一斉に立った。それぞれが何の音かはわからない。気にする余裕もなかった。わたし自身は、座っていた一彰へ横から思い切り倒れ、振り返りきっていなかった一彰の側頭部に鼻をぶつけてしまった。とっさに手をついたイスの背もたれは揺れたけれど、一彰のおかげで倒れることはなかった。


「ごめっ……!」


 すぐさま離れる。片方裸足のおぼつかない足取りで後退すると、ソファの背中にぶつかった。
 目を丸くした一彰がわたしを見上げていた。その光景に、バチッと一瞬視界が光る。熱が全身をほとばしる。
 今、鼻がぶつかると同時に、一彰の耳に自分の口が当たってしまった、気がする。気のせいかも。気のせいだと思いたい、でも一彰の驚いた表情と、口に残る柔らかい感触が現実だと言い張る。無意識に顔を覆う片手が、痛む鼻を労わっているのか、口を隠しているのか、わからなかった。倒れ込んだ罪悪感、それと、これは、なんていえばいいんだろう。いても立ってもいられない、とても平静ではいられない。


「ほんとごめん……!」
「ぼくは大丈夫。は?怪我はない?」


 ――あ。わたしを案ずる声に、一瞬で我に返る。改めて一彰と目を合わせると、彼はすでに落ち着きを取り戻し、至って普段通りの冷静な眼差しで、わたしを見上げていた。
途端、頭から冷水を浴びせられたかのように、沸騰寸前だった脳が冷めていく。頬は火照ったまま、指先が冷たくなって、血を奪われてしまった、よくない状態になっていくのを感じる。


「だ、大丈夫……」
「よかった」


 何も気付いていない、安堵したように笑う一彰に辛うじて笑みを返す。「もうすぐカシオと羽矢さんも戻ってくるから、みんなでチェス対決しようよ」けれど、彼のむきだしの右耳が目に入り、どうしたっていつも通りではいられなかった。今、わたしの身体は、湯沸かし中のお風呂に冷水を注いでいる最中で、でもぬるま湯が心地いいなんてことはなく、早くどっちも止めないと、という焦りでいっぱいになる。ましてや、チェスが終わるまでこの空間に居続けるなんて、とても無理なことだ。


「ごめん……このあとチームでご飯食べに行くって、伝えに来たんだ……」
「そうなんだ。ごめんね、無理に来させて」
「いや、ごめん、ごめんね……」


 たどたどしく嘘をつき、急いでサンダルを履き直す。一彰の顔は見られない。……約束は、果たした、から、大丈夫。後ろめたさと羞恥で心臓がばくばくと暴れていて、目眩すら覚える。
 ふと、逸らした目線の先では、チェスの盤面が崩れていた。テーブルにもぶつかってしまったようだ。そのことに二人へ再度謝罪を重ね、ついに開いたままの入り口に辿り着く。


「また今度……」
「うん。またやろう」


 笑顔を浮かべたままの一彰を最後に一目入れ、作戦室を出る。通路は無人だったけれど、シャッターが開けっ放しだから聞こえてしまう。存在を消すように、ひたすらゆっくり歩いて、できる限り足音を殺す。どんどん作戦室から離れていく。暑いのか寒いのかわからない。風邪をひいたときみたいに、震えが止まらない、具合の悪い感じだ。身体がおかしくなってしまったと、はっきり自覚できる。
 心の中には、罪悪感と、それから、一彰の驚いた顔と、そのあとわたしを案じた声があった。わたしの心境とは大違いで、混乱してしまった。わたしはこんなにいっぱい、動揺しているというのに、一彰はぶつかられたことに驚いていただけだった。


「……」


 足が止まる。無人の通路に、わたしの存在だけがぽつんとある。
 一彰がわたしにこだわっていないのは、彼の普段の言動から重々承知していた。それでも約束を守ろうとする人だから、いずれわたしたちは結婚するだろうと思っていた。あとは気持ちが追いつくかどうかの心配しかしていなかった。

 けれどもし、わたしが強い意志を持って、嫌だと言ったなら、一彰は無理強いしないだろう。さっき案じたような冷静な眼差しでわたしを見つめて、わかったと答える。その瞬間、約束はなかったことになる。一彰は約束を反故にしたわたしのことを、未練のひとつもなく綺麗さっぱり忘れ去る。よく研いだ刃物で見事な断面図を作る、きっと一番怖い方法で、わたしたちは他人になる。
 こんな、ちょっとの先も見えない真っ暗で、悲しい、苦しい関係が、まるで素敵な毛皮を被って、にこにこ笑いながら、いい人ぶった顔でわたしたちと手を繋いでいる。一彰の顔が見えないまま、わたしは一人、曖昧な笑みを浮かべている。




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