チェス盤からこぼれた駒をひとつずつ戻していく。テーブルが受けた衝撃で盤面は全体的に右へずれていたけれど、直前まで熟考していた対局だったため復元は容易だった。蔵内の迷いのない手が白の駒を移動させるのに遅れないよう、自分も動かしていると、これは果たしてぼくの手だっただろうか、と疑問が湧いてしまう。まるで脳と切り離された腕が勝手に動いているように思えて仕方がない。
 ぼくの違和感をよそに、盤面は数分前と寸分違わず元通りになった。さて次は蔵内の手番だと、落としていた視線を目の前の対戦相手に上げる。


「休憩を挟むか」


 蔵内もこちらを見ていたらしい。知り合ったときの第一印象のまま、落ち着き払った表情でぼくを捉えていた。


「大丈夫だよ」


 とっさに切り返した答えに、しかし蔵内が納得の色を示すことはなかった。理由は簡単に察することができる。そして、言いくるめられるだけの根拠を、今の自分には提示することができないことも、よく自覚していた。背もたれに寄りかかって距離を取る。情けないことに、異常なほど真っ赤になった頬を指摘される前にできることはそれくらいだった。


「本当に大丈夫なんだ……ただの事故だから」
「ならいいが。勝敗に影響が出そうなレベルだから流石に気になるよ」
「意地が悪いな。手加減するつもりないくせに」
「おまえには負け越しているからな」


 蔵内はそう言って肩の力を抜き、同じく背もたれに預けて腕を組んだ。チェス盤の隣に置いてあるタブレットに目を遣り、この間作った勝敗表を思い出す。ぼくから流行らせたのもあって、戦績は自分がずっとトップだ。次点にいる蔵内は、最近どんどん強くなってきたように感じる。今の対局も優劣のつけ難い戦況だった。
 勝ちたいのなら黙って再開させればいい。そうしないのは、彼の生真面目な気質ゆえか、それともぼくの狼狽ぶりが尋常じゃないせいか。はあ、と観念したように息を吐く。口内をなでる吐息すら熱く感じた。


が帰ってくれてよかった。こんな顔、絶対に見られたくない」
も同じような顔をしていたけどな」
「ばれてなかったよね?」
「ああ」


 ほっと胸をなでおろす。に見られていたらなんて血の気の引く思いだ。本人も自分がした粗相に赤くも青くもなっていたけれど、行動自体に対する反応というだけで、深い意味はないのだろう。だとしても、まるで彼女がぼくを意識してくれているみたいで、少し嬉しかった。


「王子がこの手の話をするのは初めてだな」
「……そうだね」


 付き合いの長い蔵内は、話さずとも知っていただろう。気付かれていることはわかっていた。にもかかわらず今まで一度も口を出さずにいたのは、察しのいい彼が、ぼくが触れてほしくないと思っていることまで理解していたからなのだろう。指の背を自分の頬に密着させると火照っているのがよくわかる。忌々しいほどに。


「こんなの、みっともないだけだからね」


 触れられたくないに決まってる。こんなの恥ずかしくて堪らない。今だって、居心地はここ一番で最悪だ。自分以外に胸の内を覗かれることが、それもぼくの独りよがりを見つめられてしまうことが、何よりも恥ずかしい。だから今まで隠してきた。十年以上、誰にも悟らせることなくひた隠しにしてきたのだ。

「おとなになったらけっこんしよう」あの約束を、はいつまで覚えていたんだろう。数日後さり気なく話に出したときにはすでに忘れられていた。さすがに薄情だと思ったよ。だとしてもなかったことにはしまいと、子どもの頃の約束なんてとあしらわれないよう、これまで彼女の近くを譲らなかったし、大切にしてきた。世話を焼きながら、いろんな刷り込みもした。幸い、幼いは素直で何でも飲み込むきらいがあったため、それはそれはうまくいった。あとは時が来るのを待っていれば、彼女は一生ぼくのそばにいてくれる。
 だから、いい。何をしたって誰を見ていたって、君は自由だから、いいんだよ。そう思っているのは、間違いないのだけれど。


「自分だけがすきなんだって……思うたび虚しくなる」


 はぼくのことを、ぼくと同じようには見てくれない。どんなに優しくしても、大切にしても、幼なじみ以上に想ってくれない。
 だから彼女の気持ちを確かめるようなことはしてこなかった。聞いたら同時に、自分の内心がから見えてしまうだろう。そうなってから上手に取り繕えるか、自信がなかった。この十二年、への感情が表に出ないようとにかく努めてきたおかげで大抵のことには動じなくなったと思うけれど、のぼくへの感情を知ることは、「大抵」の範疇から大きく逸脱するのだ。


「……」


 唐突に、思い出したくないことが脳裏をよぎる。思考が停止し指一本動かせない。チェスの盤面が、何の意味もなさない物体の集まりに見える。
 掴んだ手。ぼくを見つめる目。あのときは確実にぼくを――。


「王子?」


 蔵内の呼びかけに我に返り、目線を上げる。案じるような表情に、は、と息を吐く。心臓が気味の悪い脈を打っていた。


「ごめん。何でもないよ」
「俺も軽率に聞いて悪かった。やっぱり少し休憩をしよう」


 そう言ってイスを引き、立ち上がる。心配されるような顔をしていただろうか。かといって、引き止めるほど虚勢を張る気力が湧いてこないのも事実だった。
 飲み物を買ってくると言い作戦室を出て行った蔵内に背を向け、再度視線をチェス盤へ落とす。ひとつひとつの置かれた意味、戦略が理解できる。大丈夫だ。頬に再度指の背を当てると、随分と熱が引いていた。息を吐く。さっきよりはましになっただろう。

 みっともなくても虚しくても、どこまで行ったってのことは諦められない。十二年前の約束だって破棄してあげない。君には、ぼくの気持ちにしかるべきときに応えてもらう。そうやって手を繋いでいる。
 自由だからいいんだよ、この中では。まだ気付いていないだろう。囚われたまま生きている、ぼくだけの女の子。




11│top