犬飼が眉をひそめてわかりやすく難しい顔をしていたものだから、問題集の最後の難問を解いているのも忘れて見入ってしまった。
 すぐに視線に気付いた彼は目が合うと、今度はバツが悪そうに苦笑いを浮かべた。それから、睨めっこしていた携帯を脇に置き、置いた手で溜め息と一緒に頬杖をつく。そんな一連の動作すら珍しい。どんなときでもにこにこへらへらしている犬飼らしかぬ眉間の狭さに注目してしまう。しばらく目を丸くさせたまま、つい、と伏せられた携帯を一瞥し、それから彼のルーズリーフに移動させると、わたしが今手こずっている問題には辿り着いてすらいなかった。


「何かあったの?」
「ちょっとね」


「勘違いさせちゃったみたい」弱気な声。本当に彼らしくもなく参っているようだ。そのわりに核心をつくことは口にしないので、聞いてほしいのか触れてほしくないのか、判断に迷う。触らぬ神に祟りなしとか、知らぬが仏とも言うしなあ。数秒考えたけれど、犬飼は神さまでも仏さまでもないし、普段あらゆる事柄について話しているのだから、ためらうのは馬鹿馬鹿しいことだ。さすればと、女子関連かと当たりをつけて問うと、そうそうとあっさり肯定された。


「あ、ちゃんは関係ないから安心してね」
「え。あ、うん。心配してない」
「だと思った」


 背もたれに寄りかかった犬飼の、苦い飴を舐めていたような表情が、気の抜けた笑顔に変わる。それだけで、踏み込んで正解だとマルをつけてもらった気分になる。
 彼曰く、自分に好意がありそうな女の子と仲良くしていたら、図らずも脈があると思わせてしまったようで、彼女が近々犬飼に告白しようとしている、という情報を友人からリークされたらしい。犬飼自身にその気はなく、あくまで友達の一人として接していたそうだ。
 お相手の見当もつかないわたしは、あららお気の毒に、と他人事らしくリアクションして、シャーペンをテーブルの上に置いて飲み物を手に取る。これが他の人だったなら「あなたが気のあるそぶりをしたんじゃないのか」と言いそうになる主張も、犬飼の言い分となれば話が変わる。彼は空気を読んで他人との距離感を掴むのが大変に上手なので、脈もない人に悪手を取るとは思えなかった。嫌いで、いっそ距離を取りたいと思っていたのならまだしも。
 ラウンジのソファ席で開催中の勉強会が、相談会に移り変わる流れを感じ取る。今日はもう十分勉強したし、いい気もする。でも最後の問題だけは解いちゃいたいな。置いたシャーペンを取るか取らないか思案して、結局、やめておく。もう少し雑談に興じてもバチは当たらないはずだ。とはいえ、人間関係で犬飼にアドバイスできることなんて何もないのだけど。


ちゃんはおれのこと絶対すきにならないから楽だな」
「うん。それはそうだ」


 即答すると犬飼は愉快げに口を開けて笑った。わたしも、言ってやったと言わんばかりに口角が上がる。だって事実だもの。


「王子と結婚するんだもんね」


上がった口角は途端に下がる。


「……」
「わかりやすくていいな。王子以外で悩む必要ないもんね」
「知らない」


 反射的に語気が強くなる。やっぱりやめた。勉強を再開しよう。「続きやりなよ」持ったシャーペンのノック部分で犬飼のルーズリーフを力任せに二度叩くと、彼は肩をすくめてはいはいと雑に返し、テーブルに置いた携帯をさらに遠くへ払いのけた。
 それを尖らせた口のまま見ていると、やっぱり疑問に思ってしまう。犬飼は人との距離感を測るのが上手なくせに、どうして一彰の話をするときは、こんなに意地が悪くなるんだろう。答えを探そうと脳を回転させると、今回に限っては、そうまでしてでも自分の話題から逸らしたかったんだろうと推し量れてしまって、なんだか心臓あたりが鈍く痛んだ。これがさっぱりお門違いの痛みなのかはわからない。少なくとも、解答欄のマルは取り消され、バツをつけ直されたのだと思う。

 ともかく気を取り直そうと、形だけでも自分のノートと向き合うも、もう集中はできなかった。頭の中は、今しがた聞いた犬飼の交友事情と、ここ最近の一彰とのやりとりがぐるぐると混ざり合っていた。
 気のあるそぶりにまんまといい気になるわたしと、そういう意味ではすきじゃない一彰。二人をただの幼なじみのままにしておかず、形を変えようとする、十二年前の約束は、きっとぶよぶよで、半透明で、不安にさせる。わたしは考えるたび、憂鬱になってしまう。
 だとしても自分から反故にすることができないのは、果たしてわたしが一彰に好意があるからなんだろうか。すっかりすきになってしまっているから、一彰も自分をすきかもしれない、口にする言葉すべて本当のことなんだと、淡い期待を持ち続けて、みっともなく諦め切れないんだろうか。

(違うな)おもむろに、シャーペンを握った手が止まる。そこから一ミリも動けなくなる。石像か、もしくは探偵にでもなったみたいに、思考が明瞭になる。

 わたしはたぶん、怖いのだ。十二年前の約束でさえ律儀に守ろうとする、一彰の信頼を踏みにじる罪の重さに、耐え切れる自信がない。一度でも約束を破れば、きっと一彰は、わたしへの信頼を無にするだろう。あなたのことは今まで一度も信用したことがありませんと言わんばかりの眼差しでわたしを見つめる。きっと過去まで否定される。優しい幼なじみは、時折驚くほど冷たい人になるから。
 だから、たとえすかれていないことが明らかでも、一彰から完全に見放されないよう、彼が守ろうとしてくれる約束をわたしも守っているのだ。この心掛けが、とても健全だって、悪いことじゃないんだって、見えないままでいよう。




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