つくづく、六歳の自分は一彰と結婚の約束をしておいて、よく浮かれなかったなと感心してしまう。

 絵本の内容を理解できる歳になると、わたしは次第に、物語の王子様になりたいと思うようになっていた。いつでも主人公ではなかったけれど、どのお話の世界でも人気者で、みんなから慕われていて、決まってかっこいい、心優しく、粗のない、運命の人と結ばれる王子様がよかった。彼は、ヒロインの苦悩など露知らず、目の前に現れた彼女を選んで幸せになる。いいや物語が終わったあと、知るのかもしれない。そしてそれすらまるまる包み込むのかも。彼だってつらいことを散々経験しているのかも。だとしても、何もつらいことはありませんというような顔で、いずれお姫様になる女の子を優しく迎え入れる、そういうことができる王子様が、わたしの憧れだった。

 ともすれば、幼い子どもが身近な「王子」に興味を持つのは当然の流れだった。年長の時点で整った顔立ちだった一彰は園内でもちょっとした有名人で、一人の知り合いもいないはずのクラスの子や親御さんにも顔と名前が知られているほどだったらしい。そんな彼の人気も知らず、家がお隣さんの男の子に「おうじってなまえかっこいいね」なんて言って話しかけ、笑ってお礼を返してもらってから始まった関係は一年と経たず盤石に構築され、この頃にはすでにお互いが一番の仲良しだった。
「かずあきのなまえかっこいいなあ」初めて話しかけてから度々話題にするわたしに一彰が嫌な顔をするのを見たことがない。今日もクラスのイスに座ってお気に入りの童話を読むわたしが口にすると、向かいの一彰は顔を上げてにこりと笑った。


「ありがとう」
「いいなあ、わたしもおうじがよかったなあ」
「ふふ」


 口角を上げて嬉しそうに笑う。このとき一彰も絵本を読んでいた気がするけれど、何を読んでいたのかは覚えていない。当時から一彰は、わたしの面倒を買って出るような甲斐甲斐しさがあったように思う。それをわたしも、当然のように受け入れていた。そばにいる一彰の本心がどこにあるかなんて、たぶん少しも考えてなくて、ただ言葉のひとつひとつを額面通りに受け取っていた。そしてそのことに対して、一彰が何かを言うこともなかった。


「ぼくとけっこんしたらなれるよ」
「えっ!そうなの?」
「うん」
「じゃあかずあき、わたしとけっこんして!」


 両手で絵本を持ち上げ万歳するわたし。一彰も笑顔で、うんと大きく頷いた。


「いいよ。おとなになったらけっこんしよう」




◇◇




「今日、同じシフトだよね」


 うちの作戦室を訪ねるなり問うた一彰は、すでに戦闘体に換装し、一時間後に迫る防衛任務の準備は万端といった様子だった。昼頃から本部に来ていたわたしは、一彰も来ていることをなんとなく察していたので、彼の登場に驚くことはほとんどなかった。正直言うと、来るかもとすら思っていた。用件も予想通りだ。


「うん」
「じゃあ、終わったらまた来るから、一緒に帰ろう」
「うん。ありがとう」


 待ってるねと返すと、一彰はふわっと、綿毛のように微笑んだ。つられてわたしも口角が上がる。笑顔と一口にいっても、小さい頃からずっと近くにいた一彰が見せるそれは、成長や状況によってさまざまな変化がある。さすがにあんまり昔のことは思い出せないけれど、どれもが相手の目を奪うような、心を掠めるような笑顔だったと思う。そういえば、前はわかりやすい作り笑いをすることもあったけれど、いつの間にか全然しなくなったな。あれはあれで、一彰の素が見えた気がして安心したものだ。

 しみじみと、一彰が魔性の男じゃなくてよかった、と思う。人を手玉にとることを趣味にしていたら、今頃何人転がされていただろう。一彰のすごいところは星のようにあるけれど、たぶん大元は、自己分析力や自律の精神にあるんだろう。彼は自分のことを隅々までよく理解しているように見える。
 星のひとつである外見の華やかさのおかげで、わたしもそれなりの嫉妬ややっかみを買ってきたけれど、外的要因を理由に彼と距離を置こうとしたことは一度もなかった。そんな他人より、一彰がわたしにくれる優しさや、気遣いや温度が心を温めるから、ずっと近くにいたいと思わせる。思慮深く肝の据わった一彰は人として尊敬できるから、こうなりたいという目標にしていた時期もある。結局、遠すぎる背中に指の先ほども届かなかったけれど。


「寝癖ついてる」
「え?」


 一彰の視線が少し左に逸れた、と思うと同時に右手が伸びてくる。それが、わたしの左側の襟足に触れる。つられるように首を向けると、一彰の指が髪に絡まり、そのまま下へと流れた。白手袋をはめた指先が離れた途端、毛先が外側にぴょんと跳ねる。


「ふふ」
「ほんとだ、今気付いた……」


 恥ずかしい。お茶を濁すように自分で何度も梳くも明後日の方向を向くばかりだ。これは一回濡らさないと駄目だろうなあ。それか結ってしまおうか。


「あ、換装しちゃえばいいんだ」
「そうだね。それが早い」


 一彰の同意も得られたのでくるっと踵を返し、オペレーターデスクに置きっぱなしのトリガーを手に取る。起動させると、あっという間に制服の換装体へ変身できた。もちろん寝癖なんてひとつもない、最高のコンディションのわたしだ。
 さあどうだ、と言わんばかりに、入り口に立つ一彰へ振り返る。言いたいことは伝わってるだろう、一彰は口角を上げた笑顔のまま、わたしをまっすぐ見つめていた。


「かわいいよ」


「……あはは」思わぬ攻撃を食らってしまい、ぎこちない愛想笑いを浮かべる。相変わらず簡単に口にする褒め言葉に、心臓は過敏といっていいほどたやすく反応する。季節外れのほっかいろを飲み込んだみたいに内側から火照り出す感覚は、換装体だからといって生身と大差ない。
 一彰のこれは、なんというか、あいさつみたいなものなんでしょうよ。なのにいちいち喜んでしまうから、犬飼に真に受ける馬鹿って言われるんだ。

 でも一彰はずるい人だよ。そんなかっこいい顔で優しく褒められては、いい気にならない女子はいないもの。わたしだってもし男に生まれ変わるなら、絶対、一彰になりたい。何をしても絵になる美しさで、わたしみたいな手近な女子に気のあるそぶりをしてみたい。

 俯き、くすくす笑う声だけを耳に入れる。わかっているのに熱は引かない。こんなの戯れだ。なのに続けていたら、一人で浮かれて、勘違いしてしまう。




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